妻エバは、「主によって」ひとりの男子を得たという。先にエバは、犯した罪の故に、神の呪いを受けている。「あなたは苦しんで子を産む」(3:16)と。実に今も基本的にそうなのだが、出産は、母子共に無事を願う危機体験である。その出来事によって人は、自分がかつて神の呪いを受けた者であること、つまりは、神に造られた被造物に過ぎないことを覚えざるを得ない。レビ記12章では、出産のきよめの儀式が規定されているが、それはまさに、神に従う者が、神のめぐみによって無事その時を過ごすことができたことを感謝するためのものである。出産という出来事もまた主の守りと助けによってなされる、というのが聖書の発想である。
さて、この4章には、新しいいのちの誕生とともに、人間の最初の死が記録されている。その死は、老衰の死ではない。何とも残念な殺人による死である。人間は神にあって完全な者、つまり神に敵対することもできる自由な者として作られたが、カインはその自由を、人を憎み、抹殺する自由として用いたのである。神が罪を創造したわけではない。神は人間が完全に自由であるために選択を与えられたが、その選択が罪を産み出したのである。人間は、もっとよい生き物である、誰しもがそう信じたい、そういうものだと思いたいものだが、現実は違う。人間は選択の自由を、自己目的のために、しかも欲望を遂げるために用いることもある。
カインがアベルを殺した時には、アダムはすでに120歳を超えていたと考えられる(4:25、5:2-5参照)。カインとアベルの年齢は推測するのみであるが、カインとアベルはそれぞれに土を耕す者、羊を飼う者として大人になっていた。とある日、神にささげ物を持ってきた二人に、神は異なる態度を取られている。ヘブルの著者は、この原因を二人の心の態度(信仰)の違いに見ている(ヘブル11:4)。持ってきたものが肉か野菜かの問題ではない。神は、ささげ物を持ってきた際の心を見られ(エレミヤ20:12)、人の魂の値打ちをはかられた。神に「最良のもの」を心がけたアベルの心が見られたのである。何をささげるかではなく、どのようにささげているかに注意したい(マルコ12:43,44)。
しかもこの文脈はアベルのみならず、カインも神の存在を認めていたことを伝えている。カインは未信者ではなかった。カインは神を知っていながら、神に背く選択をしたのである。カインは自身の正しくない思いを正当化し、怒りを燃やしていく。神はカインに警告を発せられた。神とカインは語り合う関係にあった。だがカインは、神の警告に聞き従わなかった。神の御声を耳にし、罪を治めるか、それとも自らの怒りに任せてしまうのか、葛藤する中で、しばしば人間は無力でありうる。しかし、キリストの十字架の恵みを語る新約聖書においては、罪に打ち勝つ聖霊の助けが約束されていることを覚えたいところだろう(ガラテヤ5:16)。神はただ警告されるわけではない、助けてくださる。選択を誤るな、と語りかけるだけではない、正しい選択をする力を与えてくださる。大切なのは自分が無力であり、惨めであり、神を必要としていることを素直に告白することなのだろう。自分を制御しようとするのでも、無力さに嘆き浸るのでもなく、神の御業を求めていく。無力な私たちの罪の現実に、神の聖霊の力が働くことを求めていく。ここに私たちの救いがある。
神の御前に隠される罪はない、全ては正しく裁かれる(11節、黙示20:13)。カインは裁かれた。土を耕すカインが土に呪われるとは厳しい裁きである。またさすらい人となる裁きも担いきれない重荷である。人に向けた憎しみ、敵対心、殺意が自分にも向けられる恐怖。実に罪を犯した者の心には平安がない、というのはまさにこのことだろう。
だが神は、カインの苦しみを哀れみ、守られた。女に対して出産の呪いが宣告されながら、その呪いの時を無事過ごし、胎の実を得る祝福に与るように、神は、決して呪いでは終わらせない。常に人に回復と恵みの機会を与えられようとする。だから神は、カインに殺されないためのしるしを与えられた。ノアが虹を見るたびに、もはや洪水によっては滅ぼされないという神の約束を思い起こし、平安を得たように、神はカインにも、何らかのしるしを与えてくださったのである。カインはそのしるしを見るたびに、自分の殺意の過ちと同時に、自分が守られることを覚えたのであろう。同様に、私たちにもしるしが与えられている。それは聖霊によるしるし、つまり洗礼と聖餐である。聖餐のたびに、私たちは神に自分たちが決して見捨てられないこと、また私たちが神ののろいから解放されることを覚えることになる。神は、厳しくはあるが、失敗した人間を冷たく、突け放し捨て去っておられるような方ではない。神は人間とは違うのである。
17節以降は、カインの子孫、つまりはアダムの子孫について描かれる。この系図をどう理解するか。素朴な疑問は、アダムとエバが最初の人として創造され、カインとアベルを産んだというのに、一体カインの妻はどこから来たのか、ということである。こうして人類の起源については、聖書の素朴な創造論と、古生物学を基礎とする科学的な説明である進化論との関係を考えざるを得ない。しかし、それらがどのような関係にあるのかは、未だにすっきりとした説明はできないし、不可能なのだろう。二つの見解はその目的も方法も全く異なるからだ。一方は、神と人との関係という観察不可能な事柄を探ろうとし、他方は、観察可能な世界を探索しようとする。また書き方にしても創造論は、伝えたいことを伝えるために、修辞的方法を憚らずに用いるが、進化論は客観的が記述様式で事実を伝えようとしている。そしていずれも、暫定的な仮の説明であるに過ぎない。創造論における出来事は単純化され、絵画的な表現ですらあるが、進化論の説明も検証された事実ではなく推測であることに間違いはない。また何よりも聖書が人という時に、それは科学が人と分類し定義するものとは異なっている。4章に関して言う限り、その生活様式は、新石器時代のものであり、およそ8000年あるいは10000年ぐらい前のことを示していると思われるが、聖書の人間は、いわゆる道具を作り、使用するところに人間の本質を認めるホモ・ファーベルという存在よりも遥かに優れたものである。だから仮に、神が、科学で分類されるような人類を形作っていたとするならば、その結果人間に近い相当数の種族が、本当の人間が最初に登場する前にいた、ということにもなる。そして最初の真の人であるアダムとエバは、エデンの園を追い出された時に、同時代の仲間が世界中に広く存在していたことを、知ったということにもなりうる。今のところはそのように整理しておこう。
ともあれ、カインの子孫は、町を建てたという。それだけ増え広がったということだろう。家畜を飼い、芸術や技術が普及し、文化が生じていく。しかしそれは同時に、人間の罪の現実がいよいよ深さを増していくものであったと思われる。まさに能力と力が全てで、弱肉強食の世界であったことだろう。そこへ、主への祈りが生じている(26節)。堕落し混迷する人間社会のために、神に祈りをささげる、本質的に大事にすべきものを大事にし、忘れ去られようとするものを忘れまいとする祈りがある。事実、それ以外に救いはない。単純であるが最も基本的な結論であろう。祈りにこそ教会の使命がある。