創世記43章

ヤコブは、ベニヤミンを行かせようとしなかった。結果的に、子どもたちがエジプトから持って来た穀物は食べ尽くされてしまった。再び穀物をエジプトへ買いに行く必要が生じた。しかし、エジプトでの食物の買い付けには、ベニヤミンが同行しなければならない条件があった。ベニヤミンを失うか、それとも食糧を得て生きながらえるのか、ヤコブの決断が迫られる。私たちの心にはどうしても物事に固執してしまうことがある。「なぜ、…私をひどいめに会わせるのか」と自分が可愛いためである。その結果、一層自分の身を危険にさらすことになったりする。しかし、救いを得るためには失わなければならないというのは真実である。
そこにユダが立ち上がっている。長いこと、分裂し、ヨセフは死んだと偽りで固めた生活を生きてきた兄弟たちの中に、一人、「私に責任を負わせてください」と、自らのことばと行動に責任を取ろうという堅い決意を示している。実に、今日の家族、会社、あらゆる共同体に必要なのは、このリーダーシップではなかろうか。働きをうまく進めなくては、と思い、あれこれすることはあっても、最終的な責任を取る覚悟がない。これがそもそもの問題である。組織を成長させよう、延ばそうと思ったら、犠牲は覚悟しなくてはならない。最後はこの自分が一切の負を背負う、と腹をくくるのでなければ、組織を動かすことはできない。組織が混迷するのは、地位や名誉にしがみつく者、役得を維持しようとする者が組織の実権を握る時である。しかし、真に覚悟を決めたリーダーシップは、組織の危機を救うことになる。ユダの腹を決めたことばにヤコブもまた動かされている。「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も失うときには、失うのだ」(14節)。 
クリスチャンは楽天主義者ではあるが、能天気な楽天主義者ではない。むしろしたたかな楽天主義者である。希望がないことは重々知っている。しかし、全能の神に対する信頼に基づいて、無に有が生み出される将来を望み見ている。「主の山の上には備えあり」(22:14)と結論した祖父のアブラハムの信仰の継承である。握りしめたものを手放さない限り、次のものを手にすることはできない。そして全能の神の御心にすべてを明け渡していく時に、私たちの思いもよらぬ結果が引き起こされるのである。実際神が描いたシナリオは、ヤコブの予測を遥かに超えるものであった。
10人の息子たちが末の弟ベニヤミンを連れて、再びエジプトに出かけて行った。彼らはヨセフの前に立った。彼らの知らぬところで、神のご計画が進み、ヨセフの心が動いている。19節、ヨセフの家の管理者の信仰にも注目させられる。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が~」そこにはヨセフの信仰を理解する管理者の姿がある。あるいは、この管理者自身もヨセフの信仰を受け入れていたのかもしれない。リーダーシップの重要な役割は、ただ、難局のかじ取りをすることではない。難局に対処しうるのは、日々の積み重ねであることを自らの姿勢によって示していくことにある。日々、確実に一歩一歩、しっかりと物事を進めていくその姿に、人々は影響されるのである。
「わが子よ。神があなたを恵まれるように」(29節)。簡単な一言であるが、ヨセフの生涯を凝縮したことばである。神の恵みによって彼は助けられ、生きながらえたのである。同じように、神の恵みにしっかり日々より頼む訓練が積み重ねられているのかどうか、それが身体から滲み出、自然に周囲に理解されるほどになっているのかどうか。いつでも、神のものは神に返す、何も持たない者でありすべては主の恵みである、と身軽になって、主に堅く信頼した歩みをさせていただきたい。

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