混沌とし、堕落した神なき世の中で、ただ一人、主のみ心にかなう人物がノアであった。神はノアが「正しいのを見て」、自ら建造した箱舟に入るようにと告げられる。また動物を七つがいずつ取るように命じられる。それは「その種類が全地で生き残るためである」(3節)とある。洪水後の生活のための家畜も含まれていたのだろう。神は、あらかじめすべてを計算し、ノアのために、最善をしてくださっていた。
実に不思議な神の導きにより、神の御手の業によりこれらのことが起こっていることに注目したい。動物たちは、ノアが造った箱舟の中に、自ら入って来たのである。神がご計画されていることは、神の業が現わされるような形で進んでいく。大切なのは、私たちの日々の生活の中に起こっている神の業に注目することだろう。神の導きを見極めること、神の時を待つことにある。
さて11節。「大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた」この表現は、1章の「大空の下にある水と、上にある水」を意識したものであるという。つまり、それは豪雨だけによるものではなく、地形の変動も加わった地下水脈が溢れ出ることも含み、あたかも創造の業を逆転させ打ち壊すかのような、つまり上の水も下の水も一緒になると思われるほどの異常な大洪水があったことを語ろうとしている。
しかし、その水害の範囲はいったいどこまでなのか。この地上の隆起の全てをくまなく覆ったという意味だろうか。それとも、地上に生きていた全てのものを巻き込んだという意味でのすべてなのだろうか。通説は後者であろう。それは、人間の裁きのために起こった洪水であれば、人間が全て死にたえることで十分だからである。実に、洪水は神が目的をもって意志されて起こった未曽有の災害であった。
神の裁きは激しかった。その勢いはすべてを押し流した。注意すべきは、神に従ったノアたちもまた、箱舟もろともに押し流され、打ち砕かれる可能性があったことだ。16節。「主は、彼のうしろの戸を閉ざされた」とある。戸を閉めたのは、ノアのはずである。しかし、神がノアの閉ざした戸の守りを固められた、というのだろう。主の勧めに従ったノアを主が守られたのである。「告げよ主に」という聖歌(423番)がある。「告げよ主に告げよ今、内にある悩みを、みめぐみに富める主は、聞きたまわん親しく、告げよ主に告げよ今、慰めは主にあり、力ある御手をのべ、主は支えんなが身を」とある。「力ある御手をのべて、主は支えられる」主の力強い御手によって、守られていくことがある。「ただノアと、彼とともに箱舟にいたものたちだけが残った」(23節)とあるように、主に従うことが明暗を分けていく。
この物語をどのように私たちの生活に適用していくか。私たちの生活に主権を働かせられる神がおられる、その神を恐れて歩むべきことを、ここから語ることもできるが、興味深いことは、ペテロは、この個所を引用して、バプテスマの予表について語ったことである(1ペテロ3:20,21)。ペテロは言う。「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」
ノアが箱舟に入るまで人々は、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり(マタイ24:38)」していた。神に対する畏れが失われ、生活の中から祈りが消え去り、世と世のものを愛し、欲望の赴くままに罪に埋もれた生き方をしていた。このような状況において、神の勧めを注意深く聞き分け、神のみこころを見出し従うことは大変難しいことであったに違いない。しかし今日もまたそういう時代である。こういう時代にあって、神の言葉を注意深く聞きわけ、神に従う一歩を踏み出す、つまりバプテスマを受ける者を神は守られ、救われる。バプテスマは、滅びからの救い、私たちの新しい人生を切り開く舟に乗りこむことと同じである。
そして第二に、ペテロは、この箇所を引用し、さらに大きな裁きが待っていることを語る(2ペテロ3:5-7)。神は、世の不正をそのままにはされない。必ずご自身の義を表される。私たちにはしばしば世の横暴は、このまま永遠に続き、正しい者は忘れ去れていくのみであると思うようなことがあるかもしれない。しかし、そうではない世は、裁きの終末に向かうと同時に、正しい者が報われる、神の栄光の御国の終末へと向かっている。その信仰に立てばこそ、今の世を、神の言葉に従って歩む力も出て来るのである。今日も、ゴールを見失うことのない、歩みをさせていただこう。