創世記8章

ノアは信仰によって神の警告を受け止め、箱舟を造り、神の義を証しした。ここで再び信仰によって、神が大雨を去らせ、乾いた大地を踏ませてくださることを期待した。箱舟に揺られた一年は、短くも長くも感じられた時であったことだろう。閉じ込められた空間の中で、自分たちの最後はどうなるのであろうか、と考えさせられることもあったに違いない。しかし神は「覚えておられた(1節)」。それは、神の忠実さを証することばであり、神が思い続けておられたことを意味する。また神は、その覚えておられるものに介入し、行動する時を待っておられたことを意味する。人は、待っている時には、神に待たされている、と思うものだろう。けれども待っているのは、私たちばかりではない。神もまた同じなのだ。そして神は、私たちの側に立ってじっと物事の成り行きを見、ちょうどよい時を見定め、行動する知恵者である。
ところで、この大洪水がいつのことであったのかは、わからない。しかし考古学的発見や聖書以外の洪水伝承からもそれは間違いのない史実と考えられている。箱舟はアララテ山の上にとどまった。それは、現在の黒海とカスピ海に挟まれたアルメニアに位置する。そこに最高峰の標高5,165メートルの山がある。しかし直訳は、「アララテの山々」。つまり、アララテ山地を意味し、特定の山ではない。また、創世記の読みとその地理的呼称が一致しているのかもわかっていない。しかし、人類がアフリカ、アジヤ、ヨーロッパへと、新しく散っていくには、相応しいロケーションである。
ノアは、初め烏を放った。古代の船乗りが陸地の位置を知り、進行方向を定めるために用いた航海術に倣ったのだろう。ノアは、地の様子を伺った。ノアはさらに鳩を三度放している。二度目に鳩はオリーブの若葉を加え、三度目の鳩は戻らなかった。地は乾いたのである。しかし、ノアは自分の目でそれを見、地の乾いたことを確信しつつも(13節)、すぐに外へ出ようとはしなかった。神の忠実なしもべノアは、第二の月の27日目「箱舟から出なさい」という神の語りかけに応じて出て行った。自分の判断の確実なことを知りつつも、神の意志の確認の下に物事を進めるノアの姿がある。ノアが神に選ばれたのは、こうしたノアの性質のためであるのかもしれない。次の一歩へと私たちが歩みを進める時に、神がゴーサインを出される、とその声を待ち望む心が、神を認め、神を敬うことでもある。
外へ出たノアは、まず初めに祭壇を築き、全焼のささげ物をささげた。神によって救い出され、神によって新しい世界に導かれたノアにとってそれは至極当然のことであった。ただこの時代の全焼のささげ物は、神に礼拝をささげる中心的な要素である。今日プロテスタント教会では、説教を中心とする礼拝をささげており、それは知性的な営みでもあるが、この時代はそうではない。しかし、その要素が意味するものは、同じものであることに注意せねばならない。21節、「主は、その芳ばしい香りをかがれた」とある。レビ記では、全焼のささげものが「主への食物である」と語られている。神に崇敬の念を示すために、ささげ物によって神に食物を提供する、というのが古代異邦人の考え方であった。しかし、聖書における主への食物にそのような意味はない。それは、あくまでも霊的な意味であり、つまり食物に象徴しうるもの、つまり、私たちの感謝、忠実、信頼、そして神に対する愛が、神にとって霊的な食物となることを意味する。神はノアの守りの感謝、忠実、信頼、そして神に対する愛という香ばしい香りをかがれたのである。今日の礼拝においても、説教が果たす役割は、私たちの感謝、忠実、信頼、そして神に対する愛の香りを立ち昇らせるものでなくてはならない。かつては儀式的に行われたものが、今日においては理性に訴えてなされるのである。
 しかしながら、レビ記を背景に最も理解を深めるべきことは、その香ばしい香りに献身を加えることであるが、それは、私たちの全き献身ではなく、私たちの代わりに全き献身がささげられたことを覚えることにある。私たち罪人の自己献身はいかなる献身であろうとも不完全さを免れ得ない。完全な献身は、永遠の御子によるゴルゴダの十字架以外にはありえない。御子の十字架の死に至るまでの、御父に対する完全な愛と服従が、完全な主への食物であり、芳ばしい香り、すなわち喜ばしく、受納されるものであった、ということである(エペソ5:2)。
 だから神は、ノアのささげ物を受けながらも「人の心が思い図ることは、幼いときから悪である」と人間の弱さをありのままに認めておられる。義しい人ノアとその家族だけを救われながら、本質的に人間に義しさはありえない、ということだ。この時点において、神はイエスの犠牲のほかに、真のなだめとなる全焼のいけにえはありえないことを暗に示しているのだろう。
毎週日曜日に公の礼拝に集うことは、アダムとエバ、あるいはノアのように、神の前に贖いを必要とする不完全な者であることを自覚する遜りを必要とするものだろう。私たちは神に感謝、信頼、そして愛を表明するが、不完全な肉なる者として神の前にあることを素直に認めるのである。そして完全なささげ物であり、神にとって最も芳ばしい香りであるキリストと共に神の前に礼拝をささげるのである。礼拝においては、私たちの心の中にいつもキリストが中心となり、キリストが高く掲げられるものでなくてはならない。
この洪水によって人類の歴史は新しく仕切りなおされていく。その初めに神がノアと交わされた契約は、ノアを代表とする全人類、全被造物との契約である。それは対等の義務を負うものというよりは、神が責任を負う契約であるから一方的約束に近い。神は、その恵みによって祝福を約束された。神に従うならば、神はその結果に責任を持たれる。今日も、キリストにあって神に自分をささげ、神の戒めにこそ、忠実な歩みをさせていただくこととしよう。

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