17章 めいめい自分の目に
<要約>
おはようございます。今日の箇所は、まさに今日的状況に通じるものがあります。宗教的であるけれども、神を恐れない家族、その信仰者の姿が描かれています。宣教を妨げているのは、まさにクリスチャンの信仰の有り様そのものであることが多いのではないでしょうか。何も問題がないようでありながら大いに異議ありという問題について理解を深めたいところです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.的外れな親子
一読、どんな霊的なメッセージを汲み取ったらよいのだろうか、と思うような箇所である。簡単に言えば、ミカという人がいて、母親の銀千百枚を盗んだのだが、母親が盗んだ者をのろったと知って、銀千百枚をそのまま母親に返した。すると、母親はのろいを取り消して、祝福するのであるが、その中から銀二百枚を取って、子供のため彫像と鋳像を作ったという。ミカも母親も神を畏れているわけではない。ミカは母親ののろいを打ち消すことに関心を持っている。母親も子供の品性を問題にすべきであるが、そこには触れず、自分ののろいを打ち消すことに関心があり、盗まれたお金を聖別してささげ、さらに安心を得ようとしたのであろう、彫像と鋳像を作ったというわけである。
ミカは神殿を自分の家に持っていた。イスラエルでは一国家一神殿が原則であったから、こうした神殿は私的な、イスラエルの原則を逸脱するものであった。しかしこういうところに、士師記の時代、堕落したユダヤ人の生活がどんなであったのかを垣間見るのである。
彼は、別に、荒れすさんだ生活をしているわけではない。むしろ神殿を持ち、彫像と鋳像まで作って宗教的な生活をしている。しかし、それはただ「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」自己満足的な生活の一つに過ぎなかった。人が認めまいと私はこれでいいんだと、自己流に信仰生活を続けてそれでよしとされる時代、それが、モーセ、ヨシュアなき時代だったのである。
2.レビ人の若い浪人
7-13節の出来事は、彼の自己満足的信仰をさらに助長させ、彼に安心感を与えた出来事を記している。というのも、神殿があり、偶像があり、もし欠けているとしたら、神殿の祭司がいない、ということだろう。彼は、息子の一人を祭司としていたが、それはあくまでも代用であり、神の祝福を完全に確信させるものではかった。そんな折に、浪人のレビ人、いわゆるイスラエル人が唯一祭司の働きを認める部族の若者が流れ着いてくる。そこで彼は、その人を自分の神殿に祭司を迎えることになる。
ミカはいう。「私は主が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから」(13節)。神殿があり、偶像があり、祭司がある。イスラエルの伝統からすれば偶像は、余計であるが、当時のカナン地方の文化からすれば、神殿、偶像、祭司は、祝福の法則が整ったというわけである。
3.自己流の宗教性を超えて
宗教的な生活はしている。しかし、目に見えない生けるまことの神を恐れているわけでもない。まさに自己流の信仰、自分の目に見えてよいと思うだけの信仰がそこに象徴されている。士師記を読むと、まさにそこには、今日的状況がある。世俗的な祝福は、自己流であっても得られるかもしれないが、神の霊的な祝福は、本当に聖書流に立っていく時にこそ、理解され、得られていくものだろう。共に聖書を開き、聖書を読み、聖書を実践する、つまり共に聖書に立つ場に出ない限り、人は「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」という自己流を続けるだけになりかねない。互いに聖書から教えられて、自己流から脱皮して成長する者となりたいところである。