士師記5章

士師記5章 デボラとバラクの歌
<要約>
おはようございます。聖書通読が習慣となり、面白くなるには、それなりの努力を必要とします。残念ながら聖書通読にも王道はないのです。ただ塵も積もれば山となる、ゆっくり一つ一つ積み重ねればよいのです。今日は神と良き時を過ごす中、イスラエル詩の特徴をも理解しておきましょう。こうした、イスラエル人の文学的特徴を理解すれば、それだけ聖書の世界も身近になります。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.イスラエル詩の特徴
 カナンの王に勝利したデボラとバラクの歌が綴られる。先に散文で語られたこと(4章)が詩文で繰り返されている。ちょうど出エジプト14章と15章の関係に似ている。
それにしてもここでは翻訳の難しさを思わされるところである。ヘブル詩には、「並行法」と呼ばれる修辞法がある。それは、日本の詩のように韻を踏む音の並行ではなく、フレーズに込められた思想を並行させる。ここでは二行詩、または三行詩による同義的並行法があり、一行目の内容が、二行目で再述され、段階的に強調される。また一行は、三拍子、または二拍子で綴られる。翻訳にこの拍子を反映させるのは実に難しい。
2.現わされた神の恵み
1-3節は、プロローグ。2節、新改訳第三版では、「イスラエルで髪の毛を乱すとき」と始まっていた。新改訳2017では、「イスラエルでかしらたちが先頭に立ち」と改められている。本来、聖なる戦いに出るにあたり、兵士が髪を切らず、伸びた髪を解いて乱して出陣する習慣を物語っているが、わかりにくいので、直訳調ではなく、意味を取って訳した方がよいとなったのだろう。その時には、主への祈願の成就を思い賛美せよ、というわけである。
4,5節も懐古調である。何を祈ったのか、に続いて、どんな救いに与ったのかを思い出す。つまり、彼らは自分たちの救いの経験をシナイでの過去の解放の経験に結び付けている。6-8節も同じで、カナンに隷属するイスラエルのあわれな窮状を描く。「隊商は絶え、旅人は脇道を通った」というのは、交通網が破壊し、交易が不可能となり、旅する者たちは妨害を回避するために余り使われないわき道を使ったということである。カナン人の略奪行為によって農業も荒廃した。それは、「新しい神々が選ばれた」、つまりイスラエルが自分たちを導いたまことの神を捨てて、カナンの異教の神々を慕い求めた結果である。「四万人」は多くのを意味する象徴的な数字であろう。ともあれ勝ち目のない虐げられた人生の中にあって、希望のない民に、神は救いと勝利をもたらされたのである。
3.主の招きに応じる
9-18節は、諸部族が召集された様子を語っている。大切なのは主の民が、集められたことである。戦いのために、精鋭部隊が集められたのではない、神に忠誠を尽くす主の民が集められた。19-22節はその結果としての勝利を語る。イスラエルはこの勝利に、精鋭部隊も、最新装備も持ちえなかった。まさに神の介入によってキション川が敵を押し流し、一人の女の手によって敵将シセラが殺されたのである。
31節、最後の告白祈願は、後のダビデの詩68:1-3節を思い起こさせる。「神は立ち上がり、その敵は散り失せる。…悪しき者が、神の御前から滅び失せますように。しかし、正しい者たちは 小躍りして喜ぶ。神の御前で喜び楽しむ」繰り返しイスラエルの歴史の中で歌われてきたこの祈願が、後のダビデの賛美のヒントになったのかもしれない。イスラエルの民は常に、外敵と外圧にさらされ、その中で、いつも信仰を持って、主の民として戦うように召しだされていた。その召集に、信仰を持って応える民もあれば、そうでない民もいた。それは今日も同じである。主の招きがあり、それに応じることなくして、主に与えられる勝利を味わうこともない。主の招きに応じることがなければ、主の御業を見ることも、信仰それ自体も強くされることはない。主を愛し、主に応じて初めて闇が過ぎ去り、光が力強く差し出ることになる。今日も、その信仰のもとに神の召しを受け止めて行こう

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.