士師6章 ギデオンの召し
<要約>
おはようございます。ギデオンが神の召しに立って、戦いに出ていく、その様子が語られます。そこで教えられるのは、やはり、神が、私たちをありのままに用いられるということでしょう。神は、私たちが背伸びまでして、神の業に与ることは期待していません。神の助けの中に生きることは、やはり神の豊かな恵みを味わうことに他ならないのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ミディアン人に苦しめられるイスラエル人
イスラエル人は、再び主の目の前に悪を行った。そこで主は、イスラエル人をミディアン人の手に渡される。ミディアン人の名は、アブラハムの第二の妻ケトラの第四子に起源を発する。ミディアン人とイスラエルの歴史的なつながりは深い。たとえば、ヨセフは、ミディアン人の隊商に売られた。モーセは、ミディアンの祭司レウエルの娘チッポラと結婚をしている。イスラエルは、シティムに滞在中、ミディアン人によって偶像礼拝と不道徳に陥った。そして士師の時代、ミディアン人はアマレク人らと共に現れ、完全にイスラエルの敵となり、略奪した。彼らは、収穫期になると襲ってきて、八ヶ月の勤労の実を略奪し、イスラエルを悩ました。農耕と牧畜が不可能となったイスラエル人は、山地の洞窟や要害に息を潜めて住み着くようになった。
イスラエルが主の助けを呼び求めたのは、このように弱くされてからである。主は、無名の預言者を通して、イスラエルの背信の事実をまず指摘される。イスラエルは、単に神の存在を忘れていたのではなく、エジプトの奴隷の家から連れ上り、圧迫する者の手から助け出し、追い散らし、国を与えてくださった方を忘れていた。しかし主は、イスラエルの求めに答え、五番目の士師を起こしてくださった。
2.五番目の士師ギデオンのつぶやき
しかしながら、五番目の士師ギデオンは、敵の攻撃を避けて、酒ぶねの中でこっそり麦を打つ臆病者であった。「勇士よ」と呼びかけられるに値しない存在である。またギデオンのことばは、私たちの率直な気持ちを代弁する。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。」私たちの心もそうつぶやく。イエスの十字架も復活も高挙も、私たちの新しい人生には何の効果も現わさない、と思わされることはないか。神が共におられるなら、なぜこのようにあまりにも惨めな状況に自分たちは置かれ続けているのか、聖書に書かれたことは皆嘘っぱちではないか、この世に希望はない、だからこうして災いを避けて酒ぶねに「閉じこもって」生きる以外にないのだ、というわけである。
3.ギデオンを召す神
しかし、そんなギデオンに語られた神のことばに注目しよう。「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか」これから装備し、訓練し、あなたを勝てるようにしよう、というのではない。とにかく全力を尽くせ、と命じるのではない。「行け、あなたのその力で」と言う。自分が無であると思うなら、無のままで出て行けということであろう。自分が弱いと思っても、その弱さのままに出て行け、というわけだ。なぜならヨシュアにも神が語られたことであるが、敵と戦い、征服するのは主であるからだ。
だがギデオンは、躊躇し続ける。そして自分に勝ち目があることのしるしを求めている(17節)。そして一度のしるしでは満足できず、二度目のしるしを求めている(36節)。それは、不信仰の故であるというよりは、むしろ謙遜さの故である。ギデオンは自分の力を知り尽くしていた。神は、私たちの弱さを問題にはされない。しかし神が用いられるのは、この私でなくてもよいのである。けれども神があわれみにより、また恵みにより、敢えて私を召し出されるならば、この私は応えなくてはならない。ただ主の御業が現されるように、と。