士師記8章

士師8章 ヨルダン川東岸での戦い(8:4‐35)
<要約>
おはようございます。ギデオンの晩年に教えられるところです。私たちはどうしても自分を重んじられない者ではないでしょうか。しかし、そのようなところに争いが起こり、様々な意味での罠があるのです。ただ主と共に生きることの喜びを深く味わっていきたいところです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.争わぬ知恵
「酒ぶねの中で小麦を打っていた」ギデオンは、今や、そんな過去を微塵にも感じさせない勇士になっていた。また、ギデオンの人間関係には柔軟さがある。戦いから除外されたために激しい抗議をしてきたエフライム人に対し、その自尊心を傷つけぬように、彼らの貢献に比べると自分の貢献など取るに足りないと答え、怒りと不満を巧みに処理している。もし、ギデオンがエフライム人の自尊心や嫉妬心に全く無頓着であったのなら、起こす必要のない衝突が生じていたことだろう。しかしギデオンは、自分の手柄にまさる相手の手柄をほめて、エフライム人の怒りを和らげた。まさに、「柔らかな答えは憤りを静める」のである。
2.戦う勘所
衝突を一応回避したギデオンは、さらに三百人の兵士たちと一緒に追撃を続けているが、その途上、自分たちに兵站協力を惜しんだスコテとペヌエルの人々には手厳しい処罰を下している。スコテはガド族の割当の地である。彼らは、デボラとバラクの戦いの時にも参戦をしていない(5:15-17)。この戦いに勝算があるかどうかわからなかったからなのだろう。ギデオンは確かに大勝利を収めたかもしれないが、ミディアン人の王ゼバフとツァルムナは逃走を続けていた。彼らが再武装をして反撃してくる可能性もないわけではなかった。結局日和見的な判断に終始し、この戦いが神から出たものであると受け止める力のないスコテの人々は、部族の結束を破壊するだけであった。争うべきは、不信仰であり、神に対する姿勢である。だからここは、イスラエルの内輪もめと理解するよりも、不信仰に留まった者に対する神のさばきと理解すべきところなのだろう。
3.主の支配の中に身を置く
22節以降は、ギデオンの晩年である。ギデオンは、イスラエル人に世襲制による支配を求められた。しかし彼は答えている。「私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます」と。彼は明確に、主の統治に、イスラエル人が目を向けるべきことを言っている。教会のリーダーシップも同じである。人が統治するのではなく、まして世襲的にその統治が続くのでもなく、ただ、主が中心とされて主に治められる教会が、神の教会である。別の言い方で言えば、主の支配の中に皆が自らの身を置いていくことである。ギデオンに、一見、地位や権力に執着する人間的な弱さは見受けられず、ただ神が最高司令官であることへの確信があるのみだ。
しかし、表向きはそうであったが、ギデオンも人間である。彼の弱さは、別の形で現れた。彼にもまた重んじられることを求める心がなかったわけではない。ギデオンは、分捕り物で、エポデを造った。ギデオンが願った金の耳輪の目方は金で1700シェケルであったという。約18000グラム、18から34キロの重さである。エポデは、大祭司の装束の一部であって、胸当てのようなものであったり、占いの道具であったり、様々な形で使われる。もちろん、そこには、アロンやヤロヴァムが牛の像を作って(出エジプト32:4、1列王12:28)、背教に導いたような意図はなかっただろう。ただ神が自分に語り、自分が従って勝利を得たことを記念したかったのだろう。しかしそれは、自分が重んじられることの裏返しにもなったのである。そして罠となった。
大切なのは、ただ神と共に生きる喜びを大事にすべきことなのだろう。そして、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」と言われた主のことばを信条として生きることなのだろう。

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