17章 アロンの杖
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日は昨日の続きで、アロンの祭司職が神によって与えられたものであることを証明し、それによって人間には彼らの罪のために代わって贖いをしてくれる者、祭司の必要性があることを示すエピソードです。つまりこのエピソードは、15章で定められた主へのささげ物を実行するように促す内容となっています。また私たちが皆神の祭司であることを改めて考えさせられるところです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.16章、17章の文脈
17章は、日本語の新改訳聖書で読むとわずか13節であるがヘブル語の聖書では28節ある。それは、区切りの違いで、新改訳聖書では、前章の36節から17章が始まるようになっているからである。いずれにせよ、16章、17章は文脈的なつながりがある。つまり、アロンの祭司職が神によって与えられたものであることを示す、三つのエピソードがつながっているのである。最初に、アロンの権威に異議を唱えて裁きを受けたエピソード(16:1-35)、次に同じ不平に対する神の怒りを、アロンが祭司としてとりなし宥めを行うエピソード(16:36-50)、最後に、アロンが12部族の中で唯一祭司として選ばれたことを神の奇跡でもって示す、本章のエピソードが続けられている。しかし文脈はもう少し広い。それは15章の新しい区切りから続いている内容である。つまり、15章では、主にささげ物をささげることが奨励された。本章では、それを実行する必要性が、12節の私たちは「死んでしまう。滅びる」という叫びによって確認されている。人間は過ちを犯す者であり、それがゆえに罪の贖いが必要であり、そのとりなしの働き手である祭司が必要なのであり、その祭司は神の任命による、というわけだ。
2.芽を吹いたアロンの杖
神が、アロンの祭司的権威を証明するのに実に単純な方法をとられた。それは、各部族の長が自分の杖に自分の名前を書いて、あかしの箱の前に置き、それが翌日芽を吹いていれば、それが神の選んだ人である、というわけだ。翌日、アロンの杖だけが、芽をふき、花をつけ、アーモンドの実を結んでいたという。他の杖はすべて芽を出さなかった。それはまさに奇跡的な出来事であった。神はアロンが、民主的な選挙によって選ばれることを定めず、むしろ、神ご自身の選びと任命によることを定められた。
アーモンドには、桜のようなピンクの花を咲かせる栽培種と、白い花を咲かせる野生種の二種類がある。イスラエルでは白い花が一般的で、聖書においては白は純潔、聖さ、また神ご自身を象徴している。またアーモンドは、1月にどの花よりも真っ先に花を咲かせる。エレミヤ書では、アーモンドが神の見張りを象徴するものとされている(1:11-12)が、これらの特質はすべてアロンとレビ部族に具体化された。つまり、彼らは特別に聖なる部族であり、民の咎を負い、贖いをなし、さらに主の律法を教えることにより、イスラエルを見守る責任が託されているのである。
3.祭司職の必要性
アロンの杖の奇跡によって、イスラエルの民は神を恐れた。それはコラの事件を象徴的に再現したものに過ぎず、イスラエルの民は、自分たちが神の怒りにさらされていることを恐れている。彼らに必要なことは、アロンの祭司職の必要性を認めることであった。
神を恐れるよりも、大切なのは悔い改めることである。そしてとりなしによって神と和解することである。神は悔い改めを拒まれない。神の悔い改めに伏して、自らの罪を告白する時に、神はそれを赦してくださる。そしてとりなし手によって、それを行うことである。では、そのとりなし手とは誰のことか?
4.罪のとりなし手として歩む
アロンの大祭司職は、キリストの大祭司職の予表とされる。しかし、キリストは、アロンに勝る、メルキゼデク系の祭司であることがヘブル人への手紙で語られている(4-10章)。キリストがアロンに優るのは、その本質的性質のみならずみわざによる。つまりアロンは、人々に代わって、罪のためにささげ物といけにえとをささげ、罪のとりなし手として働いたが、キリストは、自らをいけにえとし、罪のあがないと永遠の救いを完成し、私たちを、主の民とし、王とし、祭司としてくださった(1ペテロ2:9)。
こうして私たちは、キリストにあって皆祭司とされる。神は、私たちを祭司としてその聖なる務めに招いておられることは確かである。すなわち、神は、神のみことばを教え、祈りの香を絶やさずささげ、罪人のとりなしをする、そのような務めへと私たちを召しておられる。
しかし、神のみことばを用いて、一人一人を養い育て、キリストの体として建て上げるためのリーダーシップを担う牧師の働きは、また別である、と考えるべきだろう。宗教改革者のマルチン・ルターは、これを万人祭司であるという言い方をした。しかし、万人祭司であるということは、万人牧師であることを意味しない。今日神は、それぞれの群れに牧師を選ばれている。そのような神の立てた器を信頼して、皆で賜物を用い合って協力し、教会を建て上げることが私たちの務めであり、責任でもある。今日も主が私たちの賜物を豊かに用いて、協力の業を押し進めさせてくださるように。