民数記21章

21章 カナン人との戦い(初戦),青銅の蛇、歌
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。いよいよ新しい世代によるカナン征服の歩みが始まります。彼らの二つの姿勢に注意しましょう。彼らは悔い改め、主の定められた方法に信頼する民でした。そして、その信頼を歌にして前進する民でした。つぶやきを信頼に、そして歌と前進の一歩に変える歩みを導いていただきたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.新しい世代の物語
 民数記は、大きく三部に構成される。古い世代の物語(1-14章)、荒野での放浪(15-20章)、新しい世代の物語(21-36章)である。今日の21章から新しい区分となり、もはや古い世代が死に絶え、新しく育った世代の物語が始まっている。大祭司にはアロンに代わってエルアザルが、指導者にはモーセに代わってヨシュアが任命されようとしていた。そしてイスラエルは、モアブの草原を目指し、約束の地へ入る準備を再開しようとしていた。
2.新しい行軍(21:1:-3)
モアブの草原を目指す旅は、約4,5か月かかったであろうと考えられている。アロンの死は、40年目の第5月であり(33:38)その約一か月後にイスラエルの民が出発をしている。そして同じ年の第11月にモアブの草原に到着し、モーセが申命記の教えを民に与えているからである(申命記1:3-5)。
2.エドムの妨害
この旅は、エドムの妨害によって思いのほか、長いものとなってしまった(20:14-22、21:4)。しかし彼らは初めて、その戦いで勝利した。それは新しい時代の幕開けを期した。だが、新しい世代も、失敗を犯している。エドムの妨害によって迂回し、忍耐を迫られた時に、彼らは、かつての古い世代と同様に呟いてしまった。罪の世代循環がある。イサクが父アブラハムと同じ罪を犯したように、同じような罪が繰り返されていくことがある。だが、神は哀れみ深い、悔い改める者を拒まれず、回復され、勝利を取り戻されている。
3.青銅の蛇(21:4-9)
神は、青銅の蛇によって、人々が罪からいやされる奇跡を与えられた。「燃える蛇」というのは、蛇にかまれて起きた炎症を、人々に燃えるというイメージを与えたのだろう。しかしなぜ神は癒しの手段として蛇を用いたのか。蛇は罪や汚れの象徴でもある(創世記3章、レビ11:41-42)。考えられるのは、まずそれがイスラエルの民に自分の罪を自覚させたこと、先の赤い雌牛、緋色の糸がきよめの水をつくるのに用いられたように(19章)、銅の赤色が、贖いときよめを象徴したことである。また最終的にこれは神が定めた方法として受け止める以外にない。死んだ雄牛の灰が、死によって汚れた人々をきよめたように、いのちのない蛇はいのちのない人の命を回復する、と神が特別に定められたのである。青銅の蛇それ自体に救いの力があったわけではない。
後のヒゼキヤの時代、イスラエル人はこれに香を炊いた(2列王18:4)。青銅の蛇にあたかも人を救う魔力が存在しているかのように受け止め偶像崇拝の対象とした。しかしヒゼキヤは、これがモーセの時代に神が定めた特別措置であったことを理解し、宗教改革の手始めとしてこれを打ち砕いている。このように誤解されやすい救いの手段となったのであるが、イエスは、このエピソードを、人類の罪の赦しのための神が定めた方法として、十字架を解き明かす型として引用している(ヨハネ3:14)。永遠のいのちの確証を得ようとするニコデモに対して、イエスは、かつて神が方法を定められたように、新しく定められた方法に注意を向けるように促している。つまり、新約時代においては、十字架につけられた人の死の体が、罪に死んだ人々に罪の赦しと永遠のいのちをもたらすのである。だから、かつてはモーセの掲げた青銅の蛇を、自らのいやしのためであると信じて見上げることが求められたのであるが、私たちには、イエスの十字架を、自らの罪の赦しのためであると信じて見上げることが求められている、と。
大切なのは、神が備えられた救いの手段を受け入れ、神の救いを信じることである。今日、私たちに用意されているのは、青銅の蛇ではなく、十字架にかかげられたキリストである。キリストを救い主として認め、自らの罪を悔い改め、キリストの救いに信頼するならば、私たちにはその期待通りのことが起こる。主は、私たちの祈りに応えられる神である。
4.モアブ周辺の旅(21:10-20)
かつて、古い世代は、ホルマで敗北を経験した(民数14:45)。神がみこころとしない戦いに出て行ったためである。ところが、それから40年後、神は、新しい世代にカナン人を渡され、新しい世代は、ホルマを占領した。そして彼らは戦って、エモリ人のすべての町々、ヘシュボンとそれに属するすべての村落を占領した。
イスラエルが約束の地に近づくと、彼らの気持ちが前向きになり、高揚していることがわかる。彼らは歌を歌った。イスラエルはしばらく歌を忘れていたのであろう。かつて紅海の海辺のほとりで神に賛歌をささげて以来しばらく歌の記録はない。しかし新しい世代は歌う世代であった。つぶやきながらも、悔い改めを大事にし、前進しようとする姿勢がある。彼らは歌いつつ前進した。そしてその歌には、彼らの信仰が表わされていた。パウロは新約聖書において「先祖は、彼らについて来た霊的な岩から飲んだ」(1コリント10:4)と語ったが、それは全く根拠のない解釈ではない。事実、ここで彼らはメリバの教訓により、荒野にあっても、絶えず命の水がついてくる、モーセの打った岩がついてくることを学びきったのであり、彼らの歌はその証である。
4.シオンとオグに対する勝利(21:21-22:1)
21節以降は、すべて勝利を伝える。かつて荒野の38年において彼らが、このように歌うことを想起していたなら、荒野を放浪せずに、どんなに素晴らしい勝利を得ていたことであろうと思わされるところである。27-30節の歌は、エモリ人の間ではよく知られたもので、シオンがモアブを打ち破ったことを祝う歌である。イスラエルはその詩を自分たちのものとし、替え歌にした。17-18節の歌も、14節の「主の戦いの書」同様に、古代によく知られた歌の一つであったと思われ、彼らはそれを自由に用いている。教会も、歌を必要としている。教会に仕え、長い荒野を旅してきたと思うことがあるだろう。しかし、もうメリバのようにつぶやくのは止めて、信頼と勝利の歌を歌いながら、前進していくことである。そういう意味で、教会には歌い手が必要である。新しい歌を作り、あるいは引用し、信仰の賛美を導く、働き人たちが必要なのである。こうして彼らはその地を占領した。私たちも同じである。

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