民数記22章

22章 異教の預言者バラムと神との出会い
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日は、約束の地に向かうイスラエルの行軍に恐れをなした、モアブの王が、預言者バラムにイスラエルを呪わせようとするエピソード、その第一話になります。しかしイスラエルに対する神の祝福は決して変えられることがありません。それは、私たちに対しても同じです。神は私たちに対する祝福を永遠の約束としてくださっているのです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.呼び出されるバラム
 預言者バラムが登場する。いったいこの人物は何者だろうか。メソポタミヤの町ペトルに住む預言者もしくは占い師であるとされるが、詳しくはわからない。バラムの名は、一般的に「むさぼりつくす」とう意味のヘブル語に由来するとされるが、バラムは、この民数記のほか、新約聖書に登場する。そして新約聖書では、神に仕えるよりも金銭を愛した俗人として否定的に描かれている。「不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従った」(2ペテロ2:15)、あるいは、「忌まわしいことです。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました」(ユダ11節)とあるように。
 実際この物語は、イスラエルの侵入に脅威を感じたモアブの王バラクが、預言者バラムをお金で雇って、イスラエルをのろわせようとするものである。モアブは、その地理的な関係からエモリやバシャンがどのようにして打ち破られ絶滅させられたかをよく知っていたのである。当時、占いとそののろいのことばの魔術的な働きに対する信仰は広く信じられており、占い師が招かれて、到着することは、相手方を致命的な危険にさらすことを意味した。そこでモアブの王バラクは何としても、この預言者バラムを自分の国に招こうとしたわけである。
2.神と出会うバラム(22:7-35)
 バラムは、バラクの要請に応えようと、神の御心を確認した。神は明確に、「彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってもいけない。」と告げられた(12節)。バラムは神とバラクの板挟みとなった。バラクは、さらに多くの人、高額の報酬を申し出た。バラムは、再び神の御心を確認し、神が一緒に行ってもよいが、ただ神が語ることをのみ伝えることを命じられる。バラムは神に忠実な預言者であるかのように思われるが、実際には、再度神の御心を確かめるところに、彼の金銭欲が現れていたのかもしれない。「あなたを手厚くもてなします」ということばに彼の心は動いたのである。だから神を第一にしているようでありながら、21節以降、主の使いが抜き身の剣を手に持って彼の前に現れても、彼はそれに気づくことができないでいた。彼は霊的には盲目であった。古代においては、動物の奇妙な動作はしばしば前兆であると考えられていたので、占い師である彼が、ロバの行動に、神からのメッセージがあることに気づいてもおかしくはなかった。彼は一見忠実そうであったが、その本質は新約聖書が指摘するように金銭欲に駆られた者であった。神の怒りが燃え上がるのも、そうであればこそ理解できることである。こうしてバラムは、ロバが口を利くことで、神のみこころが、たとえ一緒に行っても呪いを語ることではないことを確認していく。
3.歓迎されるバラム(22:36-40)
 バラクはバラムを盛大に歓迎した。しかしバラムの心は既に固まっていた。彼は神を見たのである。神が確かにイスラエルと共にあり、イスラエルを祝福されるお方であることを、教えられたばかりであった。 
 二つのことが教えられる。やはり神のみことばに使える者は、利益によってではなく、ただ「神が私の口に置かれることば、それを私は語らなければなりません」(38節)という信仰に立つことだろう。預言者は、神のことばを託され、神の言葉を語るところに使命がある。牧師も同じである。牧師も神のことばに混ぜ物をせず純粋に語る。神が託されたことばをそのまま語っていくことが大切である。パウロが語ったように、神のしもべとして託された言葉を、混ぜ物をせずにそのまま語ることが大切である(2コリント2:17)。
 第二に、人ののろいを気にしてはならない、ことである。バラクはバラムにイスラエルの民をのろわせて、勝利を得ようとした。しかし、神は人間ののろいを祝福に変えることのできるお方である。詩篇の作者はこう歌っている。「彼らはのろいましょう。しかし、あなたは祝福してくださいます。彼らは立ち上がると、恥を見ます。しかしあなたのしもべは喜びます。私をなじる者が侮辱をこうむり、おのれの恥を上着として着ますように。私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人々の真中で、賛美します。主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。」(109:28-31)私たちの人生をのろい、決定的な打撃を与えようとする者がいたとしても、恐れてはいけない。彼らののろいを祝福に変えてくださるお方がいるからだ。
そういう意味で、21章からは、イスラエルに対抗する様々な民族の動きに神がどのように介入してくださったかを見ていくことになるのだろう。私たちを囲む動きがどうであれ、私たちを守り祝される神がいる。のろいを祝福に、恥を栄誉に換えてくださる神をはっきりと見ることができるように信仰の目を開かせていただくことが大切である。神は、私たちの人生に祝福を命じられておられる。また、私たちの人生を通じて、私たちの周囲の人たちを祝福すると約束しておられる(創世記12章)。実際後で見るように、バラムのことばは、イスラエルの祝福の広がりを確証するものとなった。だからどんな不幸続きであっても神はこの先、私にも祝福を用意されると信じたいものであるし、また周囲が祝福されたならば、自分の故であると思いさらに祈らせていただこう。

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