23章 バラムの詩のことば(1回目,2回目)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。バラクがバラムにイスラエルの民を呪わせる具体的なエピソードが語られます。それは三度繰り返されましたが、神がバラムに与えられたことばはイスラエルに対する呪いではなく祝福でした。私たちに対する神のおことばもご意志も同じです。神が私たちを祝福してくださることへの信頼を深めたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.バラムの最初の託宣(22:41-23:12)
モアブの王バラクは、バラムが到着すると、見晴らしの良い場所にバラムを案内し、イスラエルをのろわせようとした。バラムは、中近東の占い師の伝統に従い、七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊をささげようとする。イスラエルにおいても七は神聖な数であり、雄牛と雄羊は高価なささげものである。彼らは最善を尽くし、神の好意を得ようとしたのだろう。「裸の丘」というのは、見晴らしの良い、高くそびえた山で、草木の生えていない頂上という意味で、当時の占い師は、こうした場所を好んで用いたようだ。神はバラムにご自身を現し、語られた。
待ち構えていたバラクのもとに帰ると、バラムは彼の歌のことばを口にして言った。「詩のことば」と訳されている単語はヘブル語でマーシャール。新改訳の旧約聖書では、「たとえ話」(詩編78:2)、「たとえ」(エゼキエル17:2)、「箴言」(1列王4:32)、「物笑いの種」(申命28:37)と様々なことばに訳されている。また新共同訳では「託宣」と訳されている。必ずしも言いならされた格言を意味するわけでもない。むしろここでは、神に授けられたことばそのもの、を意味するのだろう。バラムはヘブル詩的に神のことばを伝える。ヘブル詩の特徴は、並行法にあるという。つまり最初の行と二番目の行が平行になっている。「神がのろわない者を私がどうしてのろえようか。主が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか」(8節)このような繰り返しをもって、強調するのがヘブル詩である。ともあれ、バラムは、主はイスラエルをのろってはおられない、だからのろうことはできない。またこの民は、特別な民である。祝福され増え広がった民である。私も彼らの一人に加えられたい、という。イスラエルをのろうことばは語られなかった。神は、イスラエルを特別な民とし、これを祝福されてきた。イスラエルに対する神の心は変わらない。バラムはその通りのことを語らざるを得なかった。
2.バラムの第二の託宣(23:13-26)
バラクの試みは失敗した。しかし、バラクは、再度イスラエルをのろわせるために、バラムを別の場所へと案内する。ただそこもまた先の場所と同じで、イスラエルの一部だけが見える場所であった。今日そこが実際にどこであったのかは、はっきりわかっているわけではない。
バラムは再び念入りな儀式を繰り返し、神からことばを受けている。二度目の神のことばは、イスラエルに対するものではなく、バラクの神に対する考え方の間違いを正すものである。「神は人間ではなく、偽りを言うことができない」(19節)神は正しい方である。また、「神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」(19節)神は真実なお方である。神の義と真実が明確に語られる。つまり神の義と真実を取り消すことができる者は誰もいない。神は、何物にも依存しない自立的な存在であり、ご自身のみこころを最後まで成し遂げられるお方である。そこに私たちが神を信頼する理由もあるのだろう。またそこにイスラエルが神に守られて、神の御心を成し遂げてきた理由もあるのだろう。バラムはイスラエルが敵を完全に絶滅する力を持つことを告げている。これは、私たちに対することばでもある。神が私たちに祝福を命じておられるのならば、私たちはいかなるのろいをうけようとも、敵を完全に征服することになるだろう。神の熱心がそうするのである。
だから、私たちは、人に何だかんだ言われようが、のろわれようが、あたふたする必要はない。いつでも、神のことばにしっかりと守られていることを覚えて、どっしりと構えていればよい。いつでも私たちをキリストにあって祝福すると約束された神を信頼して、日々なすべき務めをなすだけでよい。主が私たちを成功させてくださる。