民数記24章

24章 バラムの唱のことば2(3回目、4回目)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。バラムの三度目、四度目の託宣が語られます。それは、イスラエルの祝福を語るものですが、究極的には終末的に成就する預言のことばでした。旧約聖書をただ、その時代のものとして読むのではなく、終末的な視点をもって読むことは、新約聖書を深く理解する助けにもなります。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.バラムの三度目の託宣(23:27-24:13)
バラクはバラムを別の場所へと案内した。三度目の正直と言わんばかりである。ペオルの頂上はどこであったのかは、具体的にわかっていない。しかし、そこは先の二つの場所と違って、イスラエルの宿営全体を見渡せる場所であり、死海の北東岸のどこかと考えられている。バラクは、全体を見れば、のろうことができたと考えたのかもしれない。しかしバラムは、イスラエルの三度目の祝福を語り伝えることになる。それは、イスラエルがカナンに定住しその王国が繁栄すること、そして特定の敵に対する勝利である。たとえばバラムはイスラエルの未来を、川のそばに育つ力強い木々になぞらえている。杉は水辺には育たない。しかし杉には勢いがある。だから「水辺の杉」というのは、さらなる勢いを表現しようとしたものなのだろう。7節「手おけからは水があふれ」というのは、まさに豊かさのイメージであリ、象徴的に人口増加を語っているとされる(箴言5:15-19)。「アガグ」は、イスラエルの最初の王であるサウルが打ち破ったアマレク人の王アガグ(1サムエル15:8)というよりも、アマレクの王一般を象徴している。つまり、バラムはイスラエルのアマレクに対する究極的な勝利を預言的に語っているのである(出エジプト17:14-16)。
 大切なのは、神の祝福は、アブラハムの祝福を基本としていることに注目することだろう。「あなたを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者はのろわれる」(9節)誰であれ、のろわれた、滅びを宣言されたと思わせられるようなことがあったら、このことばを思い起こすべきなのだ。主が私たちの味方となる。主が私たちを支えられる。主が私たちの敵となる者に、立ち向かわれる。神のみこころは祝福の一文字に限られている。それは永遠の昔からの定めであり、私たちの人生に対しても同じである。だからどんなに神の祝福が見えないように思えても、また人にのろわれるようなことがあっても、滅びを宣告されるようなことがあっても、神の約束を信頼し、そのことを実現させようとする神の御手の動きをじっと見ていくことだ。神の御業はなされる。
2.バラムの四度目の託宣(24:14-19)
15節からは、バラムの第四の祝福が語られる。それは第三の託宣の続きであり、イスラエルの未来の王の功績を描いている。「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない」(17節)と、彼の預言は先のことであるとされる。「ヤコブから一つの星が進み出る」とある星は、王を比喩的に表すものとして用いられているが、この王は、隣国のモアブ、セツ、エドム、セイル、アマレク、ケニ人を征服する。しかしこれらはいつ成就したのか?
20節、アマレクは、ヒゼキヤの時代に最終的に滅ぼされた民族である(1歴代4:43)。21節以降はとくに理解し難い。ケニ人は、歴史的にイスラエルと良い関係にあった民族であるのに、なぜ滅びが宣告されるのか、わからない。カインは何を意味しているのか。アシュルは、一般にアッシリヤのことであろうが、ケニ人だけが征服されるというのもわからない。だから隣国の別の民族であるという説もある。キティムは、キプロスにある町のことであるから、海の民、つまり、アッシリヤの征服であるとも、またBC4世紀のギリシャ、BC1世紀のローマであるという説もある。
細かなことをあれこれ詰めて預言がどのように成就したのかを理解しようとすると、よくわからないことが多い。だから、未来に現れるイスラエルの支配者が隣国のモアブ、セツ、エドム、セイル、アマレク、ケニ人に決定的なダメージを与える、と大まかに理解するしかない。となると、これらの預言が最初に成就したのは、バラムより約300年後のダビデの治世であるが、それは一時的である。イスラエルとユダ王国が弱体化すると彼らは再び勢いを盛り返したのである。だから、後の預言者たちはそれが部分的にしか成就していないことを理解し、この預言を再使用している(エレミヤ48:45、ダニエル11:30)。また偉大な王の詩篇110篇と民数記24:15-19には言葉の上での並行関係があることが指摘され、ユダヤの文献でもそれはメシヤ的に解釈されてきた。ただ、新約聖書にバラムの預言がはっきりとそれとわかる形で引用しているものはないが、暗示的な箇所はある。(マタイ2:1-10、ルカ1:78、黙示録2:26-28、22:16)そこで、彼の預言についてその完全な成就は、後のメシヤの時代で、終末的に理解すべきものとなる。完全な勝利は罪と死を滅ぼしたキリストによってもたらされることが暗示されている、ということになる(1コリント15:25)。

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