25章 民の背信と神罰(24,000人)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。本章では、古い世代が起こした金の子牛の事件の出来事と内容的にまた構造的に並行関係があると言われます。つまり、そこに新しい世代も、古い世代と同じ教訓を学ばなければならなかった事実があったのではないか、ということです。そういう意味では、私たちにとっても教訓的な内容ということができるでしょう。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.神罰をもたらした罪(25:1-9)
バラクは、バラムののろいによってイスラエルを滅ぼすことはできなかった。またイスラエルに対する祝福は永遠の定めであった。しかし、その神のそのような熱心さがありながら、イスラエルは、自ら堕落していった。神の深い恵みの中に置かれながらも、神に自ら背を向けていく罪深さが人間にはある。神の恵み深さと人間の背教の深さを対比させて教えるのが、バラクののろいに続く民の背信のエピソードなのだろう。実際、古い世代の物語であるエジプトからシナイまでの旅(出エジプト19-40章、民数1-14章)と新しい世代の物語であるカデシュからモアブの草原までの旅(21-36章)の間に起こった出来事には、並行関係も指摘されている。つまり、いずれも神の恵み深い啓示の後に、背信の罪を犯し、また関わった者たちが即座に殺されることで神の怒りが宥められている。そして、古い世代のそれでは、聖なる奉仕のためにレビ族が聖別されたが、新しい世代のそれではピネハスに永遠の祭司職が約束されている。こうした並行関係は意図されたものなのかもしれない。つまり新しい世代も、古い世代と同じ教訓を学ばなければならなかった、ということである。
新しい世代の問題は、身体的、また霊的な意味での姦淫であった。シティムにとどまっていたイスラエルの民は、モアブの娘たちとみだらなことをし始めた。「シティム」の正確な位置はわからない。イスラエル最後の宿営地の一端であったとされる。「モアブの娘たちと」というが、実際に殺されたのはミデヤンの女性である。おそらく、ミデヤン人は移動する民であったので、モアブ人とミデヤン人は混在していたのだろう。そして彼らのみだらさは、単に肉体的なことのみならず、霊的な意味での姦淫でもあった。彼らはバアルを拝んだ。バアルは、カナン人が拝する豊穣の神であるから、第一戒と第二戒のいずれも破ったのである(出エジプト20:3,5)。新しい世代の民も、古い世代の民同様に、エジプトから連れだした神を退け、偶像崇拝に陥り、戒めの最も核心となる部分に反し、主に対する完全な忠誠を失ったのである。
神の怒りが燃え上がり、「この民のかしらたちをみな捕えて、主の前で、白日の下にさらし者にせよ」(4節)と命じられる。民全体がこの罪にかかわったことについて、全イスラエルの代表者たちがその身代わりとならねばならなかった。しかし実際に裁かれたのは、この偶像崇拝に積極的に関わった者である。「さらし者にせよ」はよくわからない。この訳は、ラテン語のウルガタ訳に従ったものだとされる。ギリシャ語の七十人訳聖書では「見せしめにする」と訳されている。ヘブル語では、「白日のもとにさらす」である。おそらく、死刑執行よりもさらに重い処罰、死者を葬らずにさらし者にすることを言っている。死刑にされた者は、通常直ぐに葬られた。しかし、本当に極悪な場合、古代の中近東では、処刑の後に木にさらし者にする習慣があった。言いたいことは、彼らの違反が深刻であった、ということである。
2.神の怒りとピネハスの怒り(25:10-15)
神の厳しい宣告を受けて、モーセと民が会見の天幕の入り口で泣いていると、一人の青年がミデヤン人の女性を連れてやってきたという。彼は、そのような状況で、自分の兄弟たちに、女を近づかせた。これまでは、外国人の女との交わりは宿営の外で行われていたが、いよいよ、問題は、イスラエルの中に深く侵入していたのである。祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスが手に槍を取り、性交の最中であったとされる、その二人を刺し通して殺した。神の神罰がやんだ。ピネハスは、「わたしのねたみを自分のねたみとした」(11節)と神にその行為を評価されている。ピネハスは、祭司であり、人々の前で神を代表するのであるから、その行為はあってしかるべきであった。そして、ピネハスの行為は、神の怒りの感情を自分のものとし、それを目に見える形で現わし、神の怒りを宥めたのである。このピネハスの行為の故に神は「平和の契約」を交わした。
旧約聖書には、いくつかの記憶されるべき契約がある。アダム、ノア、アブラハム、ヤコブ等との契約は、創世記に多く記され、それらはメシヤによる救いを予表していた。神がピネハスと結んだ契約は、ピネハスと彼の子孫が永遠に祭司職とされる契約である。古い世代の物語ではコラの事件の後(16章)、アロン系の祭司職が確立され、神がアロンに直接語られ、命じられるようになった(18章)が、新しい世代の物語として、ここでは、モーセに代わってイスラエルを導く祭司職が確立され「永遠の塩の契約」(19節)を結ばれている。古い世代から新しい世代へと、様々なマイナスに思える出来事がありながらも、粛々と神の配慮による準備が進んでいたと言えるだろう。そして、これまでの契約の延長としてピネハスの契約には、キリストの宥めを予型としている部分があるとも言える。
3.ミデヤン人への神の裁きの宣告(25:16-18)
最後にモーセは、ミデヤン人との戦いを続けるように、人々を促した。この神罰で死んだ者は、2万4千人であったという。後にパウロは、この事件に触れて、「彼らは姦淫の故に、一日に2万3千人死にました」(1コリント10:8)と姦淫と偶像礼拝に対する警告をしている。だからこの物語の主要な適用点は、クリスチャンが不品行の危険性に気をつけることにある、とも言えるのだが、ピネハスの物語の中心は、彼が祭司として、破られた神との契約を回復させたこと、神の憤りを宥め、イスラエル人を滅びから救い出したことを評価されている点にある。その姿勢は永遠に残されるべきものであった。実際それは詩篇となり、イスラエル人の記憶にも留められた(詩編106:30,31)。「鉄槌の裁き」ではなく「仲立ちのわざ」を私たちのわざとしたい。