民数記27章

27章 土地相続の例外、と後継者ヨシュアの任命
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日の箇所は、窮状に立たされたツェロフハデの娘たちの訴えに対する神のあわれみの配慮、さらに、単純に新しいリーダーの世代交代を進めるのではなく、協力と一致を促す神の愛の配慮に教えられるところでしょう。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.ツェロフハデの娘たちの訴え(27:1-11)
 新しい人口調査の目的は、戦力を計るのみならず土地の配分の適正化にあった。その中で、約束の地の相続の権利から漏れてしまう氏族の問題が生じた。ツェロフハデの娘たちのケースである。事の経緯は、ツェロフハデの父がかつてコラの仲間と一緒に逆らった罪過によって死んだことから生じた。ユダヤの律法では、父が死んだ場合、彼の財産は、息子たちで分けられた。この場合、長男は二倍の相続を受け、娘たちは結婚のためにかなりの財産を送り物として譲り受けた。通常その贈り物は衣類、宝石、金銭、家具などであったが、金持ちの父親の場合は、女奴隷や、金銭、町まで含まれた、という。ともあれ、ツェロフハデの娘たちは、父が生きていれば貰ったであろう土地を手にすることができずにいたのである。ツェロフハデの娘たちは、その問題をモーセに訴えた。そこでモーセは、彼女たちの訴えを主の前に差し出し、主のことばを告げた。主はその訴えを認めて、彼女たちがユダヤの律法の原則に反して土地を相続することをよしとしたのである。
 ただこれは別の問題を生み出した。つまり彼女たちが結婚する時に、彼女たちは自分たちの土地を併せ持って行くのだから、彼女らの一族の土地は、散在してしまうことになる。この問題は民数記の最後(36章)に再び取り扱われており、そこでは、氏族の間で結婚すべきことが義務付けられている。
 さてこのエピソードに何を教えられるであろうか。カルヴァンは、これがまだイスラエルが土地を征服し、相続する以前に起こった出来事であったことに注目する。そして、ツェロフハデの娘たちが属するマナセの半部族が、土地を相続したのは、既に占領したトランス・ヨルダン(21章)であったが、土地分配はまだなされていなかったので、彼女たちの要求は、神の約束に対する彼女たちの信仰を示している、という。彼女たちは、罪によって滅ぼされた父と同じ轍は踏まない、と信仰によって神の祝福に与る意思を明確にしたのだ、というわけだ。しかし現実的状況を考えるなら、マナセの半部族の女子どもたちは、自分たちの夫が、カナンの地を占領する戦いに出ていた間、トランス・ヨルダンに住み着いていたであろうし、土地の分配と仕切り直しが起こってきた時に、彼女たちが自分たちの将来に対する不安を覚えさせられたであろうことは間違いのないことなのである。だから信仰というよりも、ただ生きる権利を訴えたに過ぎない、彼女たちの姿勢を美化しない見方もあるだろう。しかしそうであったとしても、そのように、父の罪の故に、相続権を失い、先行き不安の中に立たせられている家族に対して、主は徹底的に罰を与え尽くすようなお方ではない、やはりあわれみ豊であることに、教えられるのではないか。彼女たちの信仰に学ぶよりも、神のあわれみ深さを覚えるエピソードであるということの方がより真実に近く、励ましでもある。物事に諦めず、神に近づく者を神は祝してくださるお方である。
2.後継者ヨシュアの任命(27:12-23)
 次に、モーセの後継者の問題が取り上げられる。文脈からすれば、人口調査も終わり、戦力も計られたのであるから誰がリーダーシップを取るか、ということになる。
モーセは約束の地に入ることを許されなかった。それはカデシュの水のことで神のみこころに逆らったからである。そこで今や、自分の役目が終わることを悟ったモーセは、「すべての肉なるものの霊をつかさどる神、主よ。一人の人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、先立って入り、また彼らを導き出し、導き入れるようにしてください。主の会衆を、羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください。」(16,17節)と願っている。モーセは自分が約束の地に入る事を許されなかったことについて、ごねたりはしない。モーセの心にあったのは自分のこれからではなく、民のこれからのことである。いつでもその心には、神に預けられた群れのことがあった。自己愛に満ちた私たちは、自分の運命を嘆いたり、自分の救いを神に懇願したりしがちであるが、神に与えられた職務に徹することをまず考えたいものである。
 さて神は、後継者の指名を願うモーセに、ヌンの子ヨシュアを指名し、新しい指導者として聖別するように命じられた。モーセは、後継者が自分の子どもであることを願わず、また自分の願う人物を推奨するのでもなく、神の選びに任せた。神が選んでくださったのは、神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアであった。ヨシュアは、長年モーセの助手を務め、さらに、初めてカナン後を征服しようと送り出され、信仰的に神のチャレンジを受け止めた二人の斥候の一人である。モーセは神の選んだとおりにした。モーセは、指導者以前に神のしもべであった。
そして手を置いて、彼を任命した。ユダヤでは、この手を置くいわば按手には三つの意義があった。一つは刑罰の義務が移行するしるし。犠牲をささげる人は犠牲となる動物の上に手を置いて、自分に下される刑罰の義務が犠牲動物に移されたことを意味した。二つ目に祝福を与えるしるし。父親が息子を祝福する場合、息子の頭に手を置いて、祝福が息子に移ったことを示した。最後にここに示される任職のしるしであり、特別な役職に就く人の上に手を置いた。彼は、手を置かれることによって手を置いた者の代理人となったのである。しかし、彼は、祭司エルアザルの命令に服さなくてはならなかった(21節)。モーセ以降、ヨシュアが指導者として立てられたにも関わらず、神のみこころは、祭司によって示されるようになるのである。律法の教師である祭司が神のみこころを教え、律法に明らかでないことはウリムとトンミムによって示された。神と語り合ったモーセと、祭司の命令に服するヨシュアには、リーダーとしての違いがある。しかし、モーセが一人で担っていた責任や権威は分与されたとことに、新しい近代的な秩序もあったと言えるだろう。神は、人間が協力し、一致する方向へと物事を進めておられる、と思わされるところである。今日も、身近な兄弟姉妹を大切にし、心を合わせて神の働きを進める思いを守っていきたいものである。

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