民数記29章

29章 ささげ物のおきて(第七の月1日、10日、15日(1~7日)の聖なる会合)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。昨日に続いてささげもの定めを語っています。第七の月は、今日イスラエルでは新年としてお祝いされていますが、それは旧約時代においても、全ての収穫が終わって、主の恵みを覚える特別なささげ物がなされる重要な月とされました。大切なのは、主の恵みを覚えて、特別に主に感謝をささげる時を持ったことです。神あってこその今の生活、その証しとなるささげた人生を歩ませていただきたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.特別な祝日のささげもの
 28章の前半では、毎週、毎月ささげられるささげ物についての定めであったが、続くその後半とこの29章では、特別な祝日のささげものの規定、つまり暦に従って配列されている年に一度のささげものについて記されている。まず過ぎ越しの祭りと種を入れないパンの祭りのささげ物(28:16-25)、初穂の日のささげ物(28:26-31)、ラッパが吹き鳴らされる日のささげ物(29:1-6)、第七の月の10日のささげ物、第七の月の15日から7日間のささげ物(29:12-40)となっている。
 既に述べたように、ささげられるいけにえの雄牛の数は毎年113頭の雄牛、32頭の雄羊、1816頭の子羊で、さらに、1トン以上の小麦粉、2リットルのペットボトル1千本分の油とぶどう酒が加えられた。このようなささげ物がささげられるようになるのは、イスラエルが農業立国として繁栄していくことを前提としていた。これは、まだ彼らが約束の地に入る前のことである。彼らは、自分たちの未来の生活がどのようになるのかをこうしてイメージさせられていたのでもある。夢なきところに新しいチャレンジはありえない。新しい世代に必要なのは、新しい具体的な未来であった。
2.第七の月のささげもの
ところで、なぜ第七の月にこれらのささげものを特別にささげていくのだろうか。第七の月は、太陽暦では9-10月であり、この時までに全ての収穫が終わっている。イスラエルでは、最初の雨の季節11月から畑を耕し、種を蒔き、最後の雨の季節を過ぎると亜麻の取入れ(2月)、小麦と大麦の取入れ(5月頃)、夏のくだものの取入れ(8月頃)そしてオリーブとぶどうの取入れ(9月頃)と収穫が終わる。そして次の収穫のために、すっかり乾燥しきった土地に、最初の雨、つまり天の恵みが豊かに降り注がれるべきことが期待された。従って、第七の月の特別なささげものは、収穫感謝であると同時に、さらなる主の祝福への期待と祈りを込めてなされた。そのために彼らは特別の機会を設けたのである。この月彼らは、過去を振り返り、これからの神の祝福を妨げる恐れのあるすべての罪を悔い改めるように勧められた。また仮庵の祭りを祝うことで、エジプトから解放されたイスラエルの民の原点に立ち戻り、過去の窮状と現在の繁栄を覚えることで、さらなる神の祝福への信頼を促された。
3.聖書の新年とユダヤ歴の新年
 ちなみに、聖書は、イスラエルの出エジプトが起こった第一の月(太陽暦の3-4月、春頃)が新年であると定められている(出エジプト12:2)。しかし、ユダヤ人は、この第七の月(太陽暦の9-10月、秋頃)を新年「ロシュ・ハシャナ」として祝う。新年が明けた10日後は「ヨムキプール 」いわば「贖罪の日」で、更にその5日後から8日間は「仮庵祭 」となる。だから毎年イスラエルではこの月に連休が続く大型連休となり、西暦の1月1日は新年ではなく通常出勤となる。しかしながら、なぜこのような違いが生じたのか、通常春を新年とする宗教歴と秋を新年とする生活・政治歴の二種類があり、捕囚期以降、生活・政治歴が中心となっていった、と考えられているようだ。ともあれ、新月は毎月のことであったが、新年は旧約では、春に定められていたが、実際この第七の月も、極めて重要な月として、聖なる会合を守る日とされたのである。
4.ささげ物の意味
大切なのは、このように教えられている流れを理解することである。イスラエルの民は、今や40年の荒野の生活を終え、約束の地に入ろうとしていた。エジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルの民は、約束のカナンの地で、ただ使役されるのではない、労働の実を自ら楽しみ、これを分かち合う生活に入ろうとしていた。それはまさに新しい祝福の生活であった。そのために彼らは新しい出発をし、新しい戦列を整え、新しいライフスタイルを確認したのであり、その新しいライフスタイルの中に、聖なる会合と、ささげ物の教えが、語られたのである。
そういう意味では、キリスト者も、救われることによって新しいライフスタイルを得るのであるが、その基本に、聖なる会合と、神様にささげていく姿勢が確認される必要があるのだろう。神にささげた生き方というのは、やはり神を認めて、神の恵み豊かさと神の祝福を覚えてこそ、できるものである。私たちの生活の中で、神の存在がリアルにならない限り、ささげ物に意義を感じることは難しい。毎週ささげられるささげもの、いわゆる礼拝献金、そして月初めにささげられるもの、月定献金、さらに、クリスマスと、イースター、夏期、冬期と特別な機会にささげものの機会がある。その機会に私たちが、喜んでささげられるかどうかは、結局、その人の中で神の存在がどれだけ、確かで、温かく触れ合うものとなっているかにかかっている。
そして、彼らが全ての収穫が終わった時に、最も重要な聖なる会合を開き、一連のささげ物をささげた、ということが、やはり主が備えてくださったものをもってささげる、主が豊かに祝福してくださったという確信のものとに、豊かにささげるという動機なのである。神に導かれて、この仕事についた。神に守られてこの仕事を成し遂げた。神の祝福の結果、私たちはかくかくしかじかの物を得た。そのような神の配慮とめぐみを覚えて、毎週、毎月、そして特別な時に、聖なる会合に集って、その証としてささげていくのである。そうであればこそ、物惜しみする心ではなく、惜しみなくささげていくことにもなるのだろう。だからこそ、それは「主への芳ばしい香り」となる。
キリスト者になった新しい生活の中心に、神を喜ぶ、主への芳ばしい香りをささげる、そのような歩みをしっかりと据えていきたいものである。それは信仰の証しなのである。

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