30章 誓願についての定め
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。30章は、誓願について、ここで誓願が取り上げられるのは、それが28,29章に記された例祭の祈りの時になされること、またこれからカナンの地征服の戦いが始まる時に、取り残された女性たちにそれが起こりがちであったことを踏まえたことによるものなのでしょう。神に思慮もなく誓いを立てる熱心さよりも、神のみことばに忠実に生きる熱心さこそ、求められるものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
箴言には「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。」(箴言5:4)と語られている。クェーカーの格言には、「意思したことについては、人は主人でありえる。語ったことについてはしもべとなる。書いたことについては奴隷となる」とあるそうだ。人はしばしば誓願をする。しかし、誓願をするほどの危機的状況が過ぎてしまうと、それを忘れてしまうことがある。誓願を果たすことができなかった場合に、どうすべきか、ここでは、いくつかの注目されるべきケースを取り上げて、その原則が語られている。
1.男性の誓願(1-2節)
まず、男性が誓願をした場合、男性は神に対してだけ責任を負うのだから、神に誓願をした以上その責任は負わなくてはならない(2節)。
2.女性の請願(3-15節)
しかし、家族の一員である女性の場合、つまり、まだ結婚をしておらず父と同居している場合(3-5節)、また成人して夫と同居している場合(6-8、10-15節)、父親もしくは夫に誓願を妨げられた時には、その誓願についての責任は解かれる。しかしそれはセーフという意味ではないのだろう。父親もしくは夫のことを熟慮した上で誓願をすべきだ、ということになる。一方、父または夫がその女性の誓願について何も言わなかった場合には、父または夫が、その責任を問われるのである(14、15節)。家族と同居している女性たちは、家長の明確な監督下に置かれる。
であるからやもめや離婚され一人で暮らす女性の場合は、男性と同様に、まったく神に対してだけ責任を負うのであるから、その女性は誓願についての責任を負わなくてはならない(9節)。しかし、この点について、男性もそうであるのだが、一人で暮らす女性が、男性同様、神に対してだけ責任を負うとしても、その誓願の内容については、熟慮し、家族や関係する人々とのことを考えた上ですべきということになる。
誓願は、自分のこととして自由にできるものなのだろうが、実際には、自分が置かれた立場や状況を熟慮しなくてはならない。そういう意味で、パウロがテモテに若い人に勧めるべきこととして「慎重さ」をあげたことが思い出されるところである。考え抜く力のある若者は少ない。考え抜く事が出来ないが故に、物事に失敗する。若い時代にはしっかり考え抜く習慣を身につけたいところだろう。
3.30章の位置づけ(30:16)
しかし、なぜ30章で誓願の問題が取り上げられているのか。一つは、誓願は、普通いけにえとともに立てられる。また、祈りが叶えられたならば、再びいけにえがささげられるものだろう。となれば、こうした行為が一番起こりやすいのは、28-29章で取り上げられた毎年の例祭の期間になる。文脈的にはちょうどよい位置で取り上げられている、というわけである。また誓願は、しばしば戦争の際になされたと考えられている。イスラエルは、これからカナンの地を占領する戦争に向かおうとしていた。この間、トランス・ヨルダンに一人取り残された妻たちが夫の留守中に誓願を立てるという問題が生じていたのだろう。実際この章では、まだ婚約していないおとめ(3-8節)、やもめ(9節)、妻(10-15節)と、婦人の誓願が主となっているのである。そして、古い世代に教えられたことは(民数6章)、新しい世代にも繰り返されなくてはならない。新しい戦力を数え、土地配分を考え、さらに新しい生活様式を教える流れの中で、シナイの荒野で語られたことは、再びモアブの草原で、丁寧に教えられようとしているのである。
4.誓願の考え方
誓願は、人に対するものではなく、主に対するものである。それには、二種類あって、一つは、何かを自ら進んで主にささげる形のものがある。エフタが自分の娘をささげると誓った例がそうである(士師11:30,31)。また、ある一定期間何もしない、口にしないという「物断ち」や自制の形でされるものがある。サウルが食物を断った例がそれにあたる(1サムエル14:24)。こうした主に対する誓願は、かなり思い切った形でなされるために、結果的に、家庭に波風を起こし、家族の生活を危機にさらすことがあった。そのような場合、神は恵みによってそれを止める権威を一家の責任者である父や夫に与え、家庭の平和を取り戻す定めとした。しかし一方、自ら神に対してのみ責任を持つ、男とやもめが誓いをなした時にはそれを果たさねばならない、とする。このように予め教えられているのだから、エフタが誓いの責任を負わねばならなかったことは、よく理解できることである。主は無謀な要求はされない。人が思慮もなく、神に誓いをする熱心さを持つよりも、ただ神の前に、神のみ言葉に生きる誠実に歩む熱心さこそ期待しておられる。