申命記15章 負債免除と奴隷の解放の年
<要約>
皆さんおはようございます。本章も、新しい神の民の考え方として、異教の国で新しい神の民はどのような違いを生きるか、ということを教える重要な部分と言えます。異教の国々では、これらのことは当たり前でも、あなたがたはそうではない、新しい価値観に立って生きるのだ、と教えられるところなのだと思います。キリスト者として、古い自分に死に、新しい自分に生きるということを私たちはしっかり意識していきたいところです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
5)負債免除と奴隷解放の年
(1)ゆるしによる繁栄(1-6節)
7年の終わりごとの負債の免除(15:1-11)と奴隷の解放(12-18)が命じられている。これらは、イスラエルの中の貧しい者に対する救済措置で、7年目は安息年、その終わりは、秋の収穫期(第7月)になる。負債が免除されるのは、全ての負債がゼロにされるのではなく、その年の収穫からは取り立てられないことを意味する。そうすれば貧しい者はいなくなるだろう(4節)というわけだ。
フィリピンやネパールなど、貧困解決のNGOの働きを20年続けてきておもうことは、結局貧困解決に必要なのは、個々人の思いやり以外にないということである。村から貧しい者を出さない、互いに犠牲を払いあって共助的な共同体を建て上げようとする志が、村の中に興らない限り難しい、それぞれがウィンウィンで得する何かを考えているようでは、結局、力のある者たちの都合のよい社会を作るだけなのである。
負債の免除にしろ、奴隷の解放にしろ、これは弱い立場の者に対する配慮を語っている。町囲みの内に、「貧しい兄弟がいる時、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない」。むしろ、「進んで手を開き、その必要としているものに十分貸し与えなければならない」と勧められる。本来納めるべきものが、手元に残るならば、それを自分のために蓄えるのではなくて、むしろ、与えていく、活かしていく。「未練を抱く」というのは、与えたものに心を残すということだが、与えたことをいつまでも勘定に入れておらず、物惜しみせずに与えていくことだ。聖書は、神の民は、異教の国の中にあって、何よりも、与えること、配慮すること、心温かき人であることを教えている。貧しい人は決して国から絶えることがないから、与えなさい、と。そうすれば、「あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる」と。神を見上げ、神との関係に生きる者には、神の祝福があるのだから、と。
(2)奴隷の解放(12-18節)
また奴隷について、7年目に自由の身にすべきこと、自由の身にする時には、何も持たせずに去らせてはならない、と命じられる。異教社会では、人を奴隷にするのは当たり前であったことだろう。しかし、奴隷であるべき人はいない。境遇上どうしても奴隷の状況に陥らざるを得ない人はあっても、必ず人は奴隷の状態から解放されるべきである。当時の文化的な状況で、その長さは最長7年と区切ったところに、彼らの神の民としての新しさ、新しい国の姿もあった。当時としては画期的な考え方であったはずだ。
そのような配慮など思いつかないのが人間であろう。本当に人間は、自己中心で、配慮に乏しい者である。それはやはり、奴隷とされた者、立場の弱い者の側に立つことを知ることがないからだろう。いつでも、自分の立場から物事を考えているようでは、本当に温かな生き方は出来ない。弱い者の立場を考える、弱い者の立場に身を置く、そういうことができるのは、自分もまたそうであった、自分もまた主に贖い出された者である、と覚えていればこそである。
そういう意味で、クリスチャンが、キリストイエスにある救いをしっかりと味わい、覚えていることは重要だ。キリストは私たちとは違って罪を犯されることはなかったので、尊い犠牲になることができた、とは言われるが、実際に私たちの罪の全てをその身に負って死んでくださっている。私たち自身がおののき、恐れるべき、罪の罰を担われた。そういう深い罪意識、自分がどこから救い出されたかが、キリストの十字架にあってわからない限り、私たちは自分が真に弱い者である、と考えることもないものだろう。霊的には神に救い出されたという深い罪認識があればこそ、神と人の前で謙虚になり、あらゆる弱さを持った罪人に対する優しさを持つ事が出来る。
今日も、神はこの愚かな私を愛してくださっている、今日もこの偽り者、裏切り者の私を、赦してくださっている、なおもキリストのしもべとして歩むことを赦してくださっている、そういう自覚に立つ時に、私たちは謙虚さと配慮を持つことができる。神に生きるために、キリストに深く根ざす、そこに私たちの日々の歩みがある。
(3)神へのささげもの(19-23節)
14章でもそうであったように、この最後の部分では、与えられた物質的な祝福を神への感謝としてささげることを忘れてはならない、と命じられる。神を中心に生活を営み、新しい神の民として形づくられる、これが申命記の語ることである。だから、それまでは、分け与えるものは、欠陥のあるものや、残りもの、回しものという考えであったかもしれないが、新しい神の民は、そうではない、初穂で最も良いものをささげる志を持つ者なのだ、と教えられる。こうしたところは、育ちが大きく関与するところだろう。人それぞれに、多彩な文化の影響の中で、それぞれの倫理観を持っているものである。それがキリスト者のこうした倫理観に近い形で育ってきている人もいるに違いない。だから取り立て、そこに新しさを感じない人もいるかもしれない。けれども、大切なのは、形だけでそうするのではなく、他者に対する深い愛から自然に、意図せずにそうできるところが、キリスト者の倫理なのでもある。そうした信仰と倫理実践に立つキリスト者が集まる教会はさぞ、素晴らしい祝福の場であることに違いはない。そしてそれは世の光となり、地の塩となるのは言うまでもない。だが現実は違うというのは、そういう根本の深い十字架愛に動機づけられるところが出来ていないからなのだろう。たまたま育ちが良かった、ということや要領の良い人が中心になって物事が進んでいる、という状況があるからではないか。神の民として新しい国を作る、そのようなビジョンの中に、新しい生き方が、勧められている。教会を建て上げることも同じなのだ。この罪深い地上に、神の愛と命に溢れた神の御国である教会を作るというビジョンは、一人一人がいかに神に教えられ、そのように生きているかにかかっている。聖書による生き方、ものの考え方を身に着け、もう一度新しい信仰生活の足並みをそろえ、祝福を分かち、祝福を分かち合う教会となりたいものである。