申命記16章

6)三つの祭りを守る(16章)
<要約>
皆さんおはようございます。イスラエルが年ごとに守るべき三つの祭りが定められています。古代イスラエルでは二つの暦が並行して用いられていたので、そのことを理解しておかなければ、なかなかスムーズに読んでいくことができないところでしょう。しかしそういう部分を丁寧に整理しながら読んでいくと、聖書通読が面白くなりやめられなくなるものです。聖書の世界の深みへ漕ぎ出す努力を重ねたいところですね。そして聖書の世界観が広がっていけば、主と共に、その世界を歩む楽しさもさらに深く感じるようになります。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

補足:古代イスラエルの暦
古代イスラエルには、二種類の暦があった。一つは、春に始まり春に終わる暦。もう一つの暦は、果実の収穫を祝う秋の収穫祭(出エジプト23:16.34:22)に始まり、同じ時に終わるものである。時折、同じ旧約聖書の箇所にこの両方の暦の例があるので、よくわからなくなることがある。例えばレビ記25:8-10には、ヨベルの年は「第7月」に始まるとある。ヨベルの年をこの時から始めるのは、明らかに秋を新年とする数え方による。ところが、「第7月」という言い方は、春を新年とする数え方による。おそらく一つは日常生活常用の暦で、もう一つは宗教的、農事的な暦であったと考えられている。旧約聖書の祭に関して語っている箇所では、春を新年とする数え方で語られていても、出来事は農事年(秋から始まる)に結び付いて語られている。
 そこで1節「アビブの月」は「青穂の月」を意味し、カナン人の暦による月の古い呼び名である。後のバビロン暦ではニサンの月と呼ばれているので、申命記はバビロン捕囚以前、つまり古い時代に書かれたものと理解されるところである。この月は、太陽暦では、3~4月にあたるが、バビロン捕囚後、ヘブル暦でも第一月とされるようになった。この月の中旬に、出エジプトを記念する過ぎ越しの祭りが守られた。この月、イスラエルでは、レバノン山の雪解けの水でヨルダン川が増水し、エリコやヨルダンの平原では、大麦の収穫が始まり、小麦は穂が出る、いわば収穫開始期となる。そして三つの祭りが祝われた。
(1)過ぎ越しの祭(1-8節)
この祭りには、その背景として種々の古代の農耕祭が考えられている。確かにそのような前史があったとしても、イスラエル人は、エジプトから解放されたことを率直に祝う新たな意義をもってこの祭りを祝ったのである。彼らは「悩みのパン」を食べながら、自分たちがどのような苦しみにあって、パン種を入れる間もなく、急いでエジプトを出たのか、その時のこと(出エジプト12:34)を思い起こした。
(2)七週の祭(9-12節)
次に七週の祭は、「かまを立穂に入れ始める時から七週間」後に祝われる。「刈り入れの祭」(出エジプト23:16)、「初穂の日」(民数28:26)とも呼ばれたが、それは、純粋に神が収穫を祝福してくださったことを喜ぶ時であった。後の新約時代には、ペンテコステと呼ばれ、聖霊の降臨を記念する時となった。つまりこの世での物質的な収穫を喜ぶ機会から、霊的な神の臨在を喜ぶ機会とされたのである。
(3)仮庵の祭(13-15節)
最後に「仮庵の祭」(13-17節)は、もともと、夏の終わりと秋に熟するぶどうなどのくだものの収穫を祝う農耕祭であったと考えられている。しかし、出エジプトの際に、それは、イスラエル人が仮庵に住んだことを思い起こすためのもの、と新しい意義づけを与えられた(レビ23:40)。つまりイスラエルに苦難があった時に、神が豊かに備えてくださったことを覚え、そのことを次の世代に知らせることがその目的である(レビ23:40)。イスラエルの民は、乳と蜜の流れる約束の地に入る前に、40年間も仮庵に住み、荒野を放浪する苦しい経験をした。それは不自由と苦難の連続であったが、神の真実をより具体的に学び、神の愛を身に染みて深く味わい知る機会であった。イエスはそのポイントを掴んで、この祭りの終わりの大いなる日に「人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37)と宣言し、神の霊的な供給の豊かさに目を向けさせたのである。真の喜びは、目に見えない神の豊かな恵みを覚え、信頼するところから来る。
ともあれ、これらの祭は、今日それぞれ、イエスの十字架による救いの象徴、聖霊が与えられたペンテコステの象徴(使徒2章)、クリスチャンの巡礼の旅、いわゆる信仰の生涯の象徴(1ペテロ2:11)に対応する、とされる。やはり受難週、復活祭、ペンテコステを単なるキリスト教の行事としてではなく、その意味を覚えて、感謝の応答として守って行くことが大切なのだろう。信仰生活を進めると言っても、私たちの歩みを後押しするような環境があるわけではない。むしろいつでも誘惑は強く、私たちは世の流れに逆らうことを余儀なくされている。霊的に死んだら流されるだけの人生であり、霊的に生きているからこそ、激しい世の逆流に押し流されずに、御国への歩みへと進んでいくことができる。その霊性の活力は、やはり、罪の深みから引き出された神を覚えること、海を分け、荒野で養われ、約束の地を征服させてくださった、神の力を覚えるところにある。
これまでは、ただ目に見える人間的な支配の中で生きて来たかもしれないが、今や私たちは、神の支配の中にあり、神の正義が行われる世界に生きている。となれば、次に来ることは、神の正義に生きることだ(18-20節)。世が不正を求める時に、あえて、正義に生きる、それによって人は、神に対する信仰を告白している。神は確かに生きておられる。神は私を救い出してくださった。神は私を祝福される。この確信に立って歩ませていただきたいものだ。
(4)祭りを守る補足規程(18-22)
 これらの祭が正しく守られるための補足(方法)が記されている。まず行政官ともいうべき、裁き人を町々に置き、わいろを取らず、真実をもって行政に当たらねばならないと規定している。この裁き人たちが、これらの祭が正しく行われているかどうかを見守るためである。祭りのような行事につきまとう不正を見守り、あれば是正する、必要があった(18-20節)
 またアシェラ像を祭ってはならないと命じられる。これも三代祭りが、異教の祭と混合されることのないように忠告、警告するものである。土着の宗教とのシンクレティズム(混合主義)への警告である。
 約束の地に入るにあたり、イスラエルの民は、単に知識ではなく、具体的な行事としてこれらの祭を守り、救いの恵みの事実を後代に伝えた。私たちも受けている救いの恵みを現実生活においてわかりやすく伝える努力が必要とされている。

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