申命記17章 神の民の王政と行政
<要約>
皆さんおはようございます。神の国を建て上げる、具体的に地域教会を神のものとして建てあげることの難しさがあります。一般的な社会であれば、そこには人間的な考えが横行し、権力者の横暴が、まかりとおり、村社会的な判断が優先されるということになるのでしょうが、神の国である教会はそうではない。異教社会の中にあって、神を中心とし神の御心が崇められ行われる場所として、光輝く存在でなければならないことは確かです。その教会をどのように建てあげるか、求められていることはひたすら聖書に学ぶことです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
7)裁判と王制
(1)裁判
イスラエルは新しい国を作ろうとしていた。まことの神を信じ崇める神の民によって設立される新しい国である。その国に持つべき国家の制度をどのようにすべきか、17章は、種々の教えが述べられているようであるが、その中心は裁判と王制にある。
まず何が裁かれなければならないか、第一に主に対する罪がある。神を認めることが神の国の第一の存在理由なのであるから、当然ここに主の契約を破った偶像礼拝者が裁きの対象として、取り上げられることになる。「町囲み」というのは地方の法廷のことで、そこで偶像礼拝者について告発があれば、事実確認をした上で、石打の刑に処す。その場合、二人以上の証人を必要とし、最初に証人が手を下し、その地の人々が加わることになる。悪を除き去れという。
続いて、殺人事件、権利訴訟、暴行・障害事件つまり隣人に対する犯罪が取り上げられる。この場合、町囲み、いわゆる地方の法廷で裁くことが難しい場合、それは、主の選ぶ場所、つまり中央の法廷で、祭司か裁判官によって判決を下すように命じられる。これは、今日の日本の法廷制度のような一審、二審といった上告の制度とは違うようだ。むしろ、難しいケースであればあるほど、中央聖所で、イスラエルに入る究極的な権威者である神の御前で、祭司によって判決が下された、ということなのである。つまり人間的な事柄であれ、神の御前で神の光の中で裁かれなければならない、というのが、教えられているところである。
私たちは、根本的に悪であり罪人であることを忘れてはならない。人に知られなければ、やり過ごせると思う、そう考えてしまうものだろう。しかし、それが神を侮ることであり、神を恐れないことになる。そうした高ぶりに眠った心を率直に認めて、主よ、この愚かさから救い出したまえ、と神の前に罪を告白し、切に赦しを願い求めること、そして自分の生活から悪を除き去っていくこと、何よりも、聖められて、全く神の意志に生きることを求めることが、神の民に求められていることである。主よ、わが心を救ってください。わが罪の深みより、私を完全に解放してください、と切に祈り、少しでも信仰の完成へと近づけさせていただくことだ。
(2)君主制についての戒め
14節以降は、君主制についての戒めである。後に、サムエルは、イスラエルの民が君主制に移行することを求めた際に、これを、神の拒否として受け止めたが、すでに神はここで、君主制に移行することを認めておられる。君主制の中で育ったモーセであれば、将来的な神の国の建設を思い描いて、このようなことを取り上げることも自然である。そこで、一般の君主制に起こりうる問題が取り上げられ、神の民の国はそうではないのだ、と述べられる。つまり、軍備拡張、ハーレム化、富の蓄積は、当時の権力者には付き物の典型的な問題である。そこで王は必ず同胞から選ばれなければならなかった。その意図は、異教の者であってはならない、選ばれた民の選びを守るためには、ということだろう。そして馬を多く増やしてはいけないとされる。それは、軍備が不足しているということで、エジプトに同盟を求めることへの禁止ととるべきだろう。結果的に、神よりもエジプトを頼ることへの戒めである。神のみが、イスラエルの守りである、神の国を建てる王は、そこに立たなければならないのだ。また、多くの妻を持ってはならない。金銀を増やしてはならない。むしろ聖書を書き写して読めとされる。つまり世俗性ではなく、霊性にこそ自分の心の関心を向け、自分のすべての意を注げ、というわけだ。神の国を建て上げるリーダーシップに求められたことである。
だが、イスラエルの現実は、ソロモンを初めそうではないことが多かった。罪人の社会の中で、まことに神の国を建て上げることは至難の業である。となれば、同じように異教的な環境の中にあって、神の国である教会を建て上げようとする努力は並大抵のものではない。教会を建てようといって、皆が後押しをしてくれるわけではない。むしろ、逆であるという現実の中で、神の助けの中で、申命記に語られた事柄を目指していかなければならないのである、と教えられるところだろう。
神の国のリーダーシップは、権力を得て、その権力にのし上がっていく者ではなくて、神の民の忠実な管理者として、その権限を聖書的に正しく用いるというのが聖書の理解だ。なぜ、聖書を読むのか、なぜ神のことばを注意深く聞き分けようとするのか、それは、委ねられている神の民を神の御心に基づいて、正しく導く、正しく方向付けるためである。そういう意味で、指導者は何よりも熱心に聖書を書き写し、神を恐れ、神のことばを守り行うことを学んでいかなくてはならない。
今日においては、神の教会を建て上げるために必要なこととしてまず聖書から教えられる、そこを大事にしたいところだろう。