申命記18章

申命記18章 聞き従うべき存在、預言者のことば
皆さんおはようございます。私たちの生活には占いが溢れています。TVに流れるテロップ、雑誌に簡単にまとめられたもの、私たちはそのようなものを目にして、少なからず自分の人生に影響何かが起こったりすると思ったりするものでしょう。しかし、占いに惑わされてはならず、占いに脅かされる必要もありません。この世にはまことの神ただお一人がおられるのみで、その方のことばにこそ心を留めるべきなのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

8)レビ人の規定(18:1-8)
 レビ族は、祭司の職務を受ける者として、相続地の割り当てを受けることができなかった。主ご自身が相続地だったからである。そして土地から生活の糧を得ることのできないレビ族に対して、神が命じられたことは、いけにえをささげる者から、それを受けることである。レビ族は、神の民が十分の一のささげものの定めに忠実である限り、その生活を保障された。そういう意味では、教会の働き人の生活が成り立つことも、神のみことばと教えに専念するその職務へ理解を示し、これを支える信徒の実践があればこそとなる。
9)真の指導者(18:9-22)
(1)イスラエルが聞き従うべき存在(9-14)
 次に神は、イスラエルの民が、約束の地での異教的な習慣と一切関わらないように、と命じていまる。占い、まじない、呪文、口寄せ、神はこれらを許されない。ただひたすら神を認めていく生活を求められる。現代の科学的な思考に慣れた私たちですら、新聞や雑誌、テレビの占いに惑わされ易いものだろう。しかしそうしたことによって未来を見出すことは不可能であることはわからなくてはならない。真の神を信じていれば、異教的な習慣に脅かされることもない。天地万物をお造りになり、支配しておられる神を信じていれば十分である。占いはまさに神を認めない行為に他ならない。神が、この世界を支配し、動かしておられる、そういう信仰がなければ、私たちはいつまでも古い生き方から抜け出すことができない。
(2)預言者を見分ける(15-22)
神は、ご自身が起こす預言者に聞き従うことを勧める。モーセが立てられたのは、モーセを通して与えられた律法、すなわち神のことばに聞き従うためであった。どこに人生のよりどころを求めるか。占いではない。まことの神のことばである。神が立てられた預言者によって語られる神のことばである。
そういう意味で、私たちは、神に立てられた権威をしっかり認めて、ついていくことが大切となる。では、その権威は何によって見極めていくのか。預言者が語ったことが実現するか否かである、という(22節)。もしそれが実現しないならば、その預言者が不遜にもそれを語ったのである、から、彼におびえることはない、という。
そういう意味では、私たちに与えられた預言のことばは、イエス・キリストにおけるもの、と理解すべきだろう。耳を傾けるべき預言者のことばとされたのは、イザヤでありエレミヤ等、旧約の預言者たちである。彼らは神の言葉を受けて、イスラエルの民を神のことばに信頼させ立たせようとした。そして後にペテロは、全ての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたことは、イエス・キリストにおいて成就した、と語っている(使徒3:18-23)。確かにイエスご自身も、「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです」(ヨハネ5:46)と語り、ご自身のことばにこそ耳を傾けるべきことを語っている。
 何よりも私たちは、イエスの愛のみことばに、耳を傾けなくてはならない。イエスに聞き従い、イエスに諭しを与えられる。そういう意味で重要なのは、イエスのみことばにこそ注目させ、イエスのみことばを忠実に語り伝えようとする牧師の存在なのだろう。律法や規定は、すべて彼らが信仰の民でありながら、カナンという世俗社会で永住していくために必要なものとして与えられ、教えられた。今日も同じである。私たちはただ生きていくのではない。世俗社会にあってまことに生ける神を恐れ、愛する、神の民として、組織され整えられ、世の光、地の塩として生きるのであり、だからこそイエスの御教えにしっかりと耳を傾け、これに立たなくてはならないのである。

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