申命記19章 逃れの町
皆さんおはようございます。本章は、逃れの町の規定です。新しい国に逃れの町、いわゆる「疑わしきものは罰せず」審理が確定するまで保護する、という法的原理に沿った、人間尊重の制度が創設されるべきことが語られています。目には目をとは言われますが、聖書は人間を尊重する中で正しく法が適用されるべきことを語っています。実に、神に造られた人間を大事に処遇する、これは、キリスト者の姿勢として大事にされなくてはなりません。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
10)逃れの町(19:1ー13)
約束の地の国々を占領し、定住するようになったら、その地を3つの区域に分け、それぞれに逃れの町を定めるように教えられている。それは、適切な裁判もなく、即座に血の復讐がなされてしまう危険を避けるためであった。彼らは距離を測定し、その町があまりにも遠すぎて、復讐者が追い付いて殺すことがないようにと配慮した。異教の社会にあり人権が尊重されない世界の中で、このように、人間尊重の原理を前向きの姿勢で打ち出している国家を、造り出すように、神はイスラエルに求めていた。出エジプトは、実に、単なる奴隷解放の神のあわれみの物語を超えて、人類が求めるべき新しい国家の創設の物語となっている。
実際に、ヨルダンの東側地域について、それは、ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴラン、と定められていた(4:41-43)、西側地域については、新たにフーレ湖の北西ナフタリのケデシュ、ゲリジム山の東山麓エフライムのシェケム、そしてユダのヘブロンが定められた(ヨシ20:7-8)。だいたい、直線にしてケデシュからシェケムまで100キロ、シェケムからヘブロンまで80キロの距離とされる。
そこに逃れることが認められる殺人者は、過失によって殺人を犯した者である。故意、計画的な殺人者と同等に扱われてはいけないと言う(民35:16-21)。罪のない者の血が流されないため、また、血の責めを負うことのないようにするためというわけだ(10節)。
なおこれは、イエス・キリストにある罪の赦しの予表としても語られている。つまり、イエス・キリストは罪人にとっての逃れの町であり、イエス・キリストの十字架に逃れる時に、私たちは神の怒りから守られ、神の責めから解き放たれるからである。イエス・キリストには、誰もが近づくことができ、誰もがその救いを信じることができる。イエス・キリストに私たちの罪の赦しがあり、守りがある。
11)境界線(19:14)
次に相続地の隣人との地境を移してはならない(14)と命じられる。挿入的な書き方であるが、これは極めて厳しく守られた命令であり、それは、土地は主のもの、主に与えられたものという理解に基づくものであった。
12)裁きの証言(19:15ー21)
最後に、不正な裁判の処理について述べられる。どんな罪も、全て人が犯した罪は、1人の証人によっては立証されてはならなかった(15節)。2人あるいは3人の証言によって有効とされた。悪意のある証人が立って、不正な証言をし、偽証が立証されるなら、その人が企んだとおりのことが行われる(19節)。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足(21)という同害報復法が取り上げられているが、これは、裁判において公正、適正に裁判が行われるべきための理屈であって、復讐を肯定し、そっくりそのまま仕返しするのがよい、と言っているわけではない。同害報復法には誤解がある。だからイエスも、これが、個人間の衝突に適用することを戒め、むしろ、個人間の衝突は、兄弟愛をもって乗り越えるべきことを語っている(マタイ5:38-42)。しかしこうした神の愛に立って物事を解決しようとする人は少ない。そこでキリスト者が、その愛を示す生き方に立てばこそ、それがそのまま証にもなり、伝道にもなると言えるだろう。