申命記2章:北に向かうイスラエル
<要約>
皆さんおはようございます。「神は北の方に向きをかえよ」と命じられます。神は、私たちにチャンスを与えられる方です。そしてそれができる、と保証されるのです。自身が無能、無力であると思えばこそ、この神のことばにただ期待し、信頼する他ありません。信仰は信じ込むことでも、力んで信じ自分を奮い立たせることでもありません。ただ、素直に主のことばに期待することです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
2)回想:シホンの占領
ヨルダン川東側を通る旅の記録である。神が命令し、イスラエルが従順に従った様子が記されている。そしてその命令は一様ではなかった。ある地域は占領し、他の地域は慎重に通り過ぎるように命じられた。神の御心が優先されたのである。
(1)北の方へ向きをかえよ(2:1-3)
「葦の海への道を荒野に向かって」、というのは、シナイ半島をスエズ湾に沿って南下する道を指す。カデシュ・バルネアで不信の罪を犯して、結局イスラエルは、約束の地とは逆方向に進み、その後、「長らく」おそらく約38年もの間セイル山の周りを回っていたと考えられる(3節)。実際には、セイル山に住むエサウの子孫たちとの衝突を避けて、その山地の南西側を行きつ戻りつしていたのだろう。このように長らく放浪と混迷を続けていたイスラエルの民のために、神は「北のほうに向かって行け」と命じられた。
何とも象徴的な出来事である。私たちの人生にも、長らくセイル山の周りを回るだけ、つまり堂々巡りの毎日で、時には逆戻りしているように思わされる時があるものだ。しかし、そんな私たちに神は、語りかけ、脱出へのチャンスを与えてくださる。問題は、信仰をもって神の声をしっかり受け止める、つまり信仰の一歩を踏み出せるかにある。
堂々巡り、あるいは空回りの日々を感じる時は、思い切って方向を変えてみることだろう。たとえば、たとい5分でも10分でも朝の祈りの時を確保するとか、聖書を規則正しく読み始めるとか、教会の祈祷会に努力して出席し始めるとか、もちろん、それは容易ではないと思われることがあるものだ。実際新しい努力をせずに、古い慣れた生活の中で、少々苦しくてもだらだら悩んでいる方が楽かもしれない。しかし、そこに何の新しい展開も期待できない。新しい試み、今までなかったようなことを努力してみることだ。導き、共にい居てくださるのは「生けるまことの神」であると信じているのであれば、なおさら踏み出したいものである。
実際神は、イスラエルを不従順の故に、ただ荒野に放り出し、見捨てていたわけではない。神は、荒野の旅で共におられて見護り、何一つ欠けることのないようにしてくださっていた(7節)。よく味わうべき真理だ。神は最も暗い時にも光として私たちと共にいてくださる。そのような方が「北の方に向きを変えよ」と命じるのである。セイルの山の周りをぐるぐる回るだけの人生に、ピリオドを打とう。
(2)エドム、モアブ、アンモン通過(2:4-23)
4節以降、神は、エサウの子孫(エドム)(4-8節)とロトの子孫(モアブとアモン)(9-21節)に対する配慮を示されている。この全世界に唯一まことの神であればこその配慮である。神は万人の神であり、イスラエルだけの神ではない。神は万人に、その時代においてその住まうところを定めておられ、それぞれに配慮を示しておられる公正な神なのだ。
セイル山岳地帯はエサウの子孫に与えられていた(5節)。だから神は、エドム人との争いを避け、水や食料もお金で買って得るようにと命じられる。この主の命令に従って、モーセはエドム人と折衝を繰り返したが、彼らは領土内の通過を断固として許さず(民20章)、結局、イスラエルはモアブへの道を進んで行った(8節)。
続いてモアブ人やアンモン人もまた所有地を与えられているのだから、争ってはならないと命じられる。
(3)ヘシュボンの占領(2:24-37)
こうして神が与えられない地の境界が明らかにされた後に、神は、モアブ人とエモリ人の間の国境となっていた「アルノン川を渡れ」と命じ、ヘシュボンの王シホンとその国を「あなたの手に渡す」、だからこれらを勝ち取るようにと仰せられる。この戦いは、「天下のあらゆる民に」(25)、特にこれから渡って行こうとしている国々の民に恐れを生じさせるための戦いであり、主が共に戦われることをイスラエルに体験させるための戦いであると言う。
この箇所を根拠に神の義戦が肯定されるような神学的議論がある。しかし、特定の時代の、特定の状況において、一部の記録に過ぎない記述からそのような議論もできないことは弁えておきたい。
ここで注目すべきは、「立ち上がれ」「出発せよ」「渡れ」「見よ」「占領し始めよ」「戦いを交えよ」と繰り返される命令である。ここに、私たちへの励ましがある。物事には思い通りにならないことが多い。だから戦いの困難さに、萎えてしまい、ビジョンも衰えることがあるだろう。そのような中で、やはり腹をくくって、ここは戦い勝ち取るという意志が保たれるのも、神によって勝利が保証されていることを思えばこそである。「私たちの力が及ばない町は一つもなかった。私たちの神、主が、それらをみな私たちの手に渡されたのである。(36節)」とあるように、神が私たちに勝利を与えてくださる、と信頼を寄せることだ。力んで信じるのではない。自分に思い込ませて、自分を奮い立たせるのでもない。自らが、無力無能であると思えばこそ、ただ神のことばが成ることを期待し、信頼するのである。