申命記20章

申命記20章 聖戦のための戦闘方針
皆さんおはようございます。本日は、イスラエルが約束の地を戦って勝ち取るための、考え方の原則を教えるものです。約束されている土地を獲得するためには、思いのまま欲するままに戦って勝ち取ればよいわけではなく、神が共にいて勝利を得させてくださる、と言います。また信仰は妄信ではなく、考え方の実践です。そのような歩みの中で、「棚からぼたもち」式ではなく、予測される苦難を乗り越えて主が与えられるものを勝ち取っていくことが期待されているのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
13)戦争のための規定
(1)出陣の心得(1-4節)
神がこれから与えようとしている地に入っていく人生は、これまでのものとは根本的に異なっている。イスラエルの民は、奇跡的に神の力強い御手でエジプトから引き出され、天からの超自然的なマナによって荒野で養われてきた。しかし、これからは、積極的に、先住民と激しく戦って勝ち取る人生に出ていくのである。約束の地は、戦って勝ち取り、占領しなくては与えられなかった。そこで自分たちよりも、「馬や戦車や、多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない」(1節)とされる。「エジプトの地から連れ上ったあなたの神、主があなたとともにおられる」(1節)からだ。そこで重ねて言う。「敵との戦いに臨もうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおののいてはならない。あなたがたの神、主があなたがたとともに行って、あなたがたに勝利を得させてくださるからである。」
 しかし、現実的にはどうだろう。聖書はそう語っていても、あまりにも力の差が歴然としている。あまりにも自分は弱すぎる、自分は残念ながら意気地のない人間なのだ、と思うことはあるものだろう。事実イスラエルがカナンに侵入して後、最初に遭遇したのは戦車を利用していたカナン人であった。馬と戦車はイスラエルの民にとってはトラウマであり恐怖であった。実際彼らはエジプト脱出の時に、この「馬や戦車」によって大いに脅かされた(出エジプト14:9,23)。特にエジプト産の素晴らしい馬を恐れ、エジプトはそのため恐怖であった(ヨシュア11:4,6)。そしてイスラエルにはその馬も戦車もなかった。しかし、神に従う者は、目に見える現実ではない神の可能性にかけて生きている。エリシャのしもべが目を開かせられたように、私たちの霊の眼がはっきりと開かれ、私たちに加勢する主の軍勢があることを覚えることだ(2列王6:17)。不信仰の故に、荒野を彷徨い続け、得るべき物をも得ずに終わってしまう人生であってはならない。恐れ退く者ではなく、信仰を持って、主の勝利を味わう者となろう。
(2)兵役免除の規定(5-9節)
次に兵役を免除される場合についての規定が述べられる。①新しい家を建てて、まだ奉献していない者(5節)、②ぶどう畑を作って、まだ収穫をしていない者(6節)、③婚約して、まだ結婚していない者(7節)は兵役を免除される。それぞれ、主の祝福を味わうためである。またそれとは別に、恐れて弱気になっている者(8節)、つまり意気喪失している者も兵役を免除される。それは、全体の士気に影響を及ぼすためなのだろう。
(3)町の攻略方法、包囲戦(10-20節) 
最後に、戦争の進め方について述べている(10-20節)。戦闘に際しては、まず降伏勧告をする。「降伏」と訳されている原語はシャロームなので、和平を申し出ることを言っている。戦うことが先決ではない。しかし、考えさせられることは、馬や戦車を持っている強国に向かって「降伏」を勧める滑稽な内容である。全能の神を信じる者たちの前向きな、しかも善意に満ちた姿勢がそこにある。外交努力、それから戦争というのは、国際的な通念であろうが、いささか前提が違うところを思わされる。
ともあれ応じれば、奴隷として生かしておき(10-11)、応じなければ交戦になる。そして交戦になった以上は、聖絶が求められる。近代のジェノサイド(民族浄化)のイメージが重なり、旧約聖書を読み進む時の躓きとなる部分である。実際聖絶は、神の愛にも矛盾するように思われるものだし、今の人権尊重の意識の強い時代においては受け入れがたいものだろう。
とりあえず聖書が語ることに注目すると、聖絶にも二種類ある。一つは、非常に遠く離れた町々に対して、その場合は、男はみな剣の刃で打ち、女、子ども、家畜は戦利品とする。他方、特定の町々、つまり主が相続地として与えようとしておられる地では、必ず聖絶する、つまり完全に滅ぼし尽すことが命じられる。理由がある。それは、彼らの異教的習慣に影響されないようにするためである。
聖書の聖絶が、近代のジェノサイドと違うと思わされるところは、まず先の外交努力もそうなのだが、力あるものが力任せに蹂躙する侵略ではなく、力無き者がはるか力優る者に対して神の正義をもたらす戦いを成し遂げたところである。そしてある場合には、滅ぼさず、奴隷として働かせたり(2サムエル12:31)、実質追放したりすることが聖絶という意味も持った。聖絶は、彼らの力業ではなく、弱小集団の彼らを用いて、神の御心をなす神の業とされているところがある。またこのように命じられているが、必ずしも文字通りに行われたわけではない部分もある。いずれにしても時代的な背景を考慮しながら、単純に近代のジェノサイドに重ねて、聖書が受け入れられない理由にする必要はない。
大切なのは、戦うという具体的な事の中にも、神の民として規定を設け、それに従うことが求められていることである。信仰は、まさに生き方であり、物の考え方である。それは、精神力ではなく、何が大事であるかを理解し、それを守る歩みでもあるのだ。

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