申命記25章 人の魂と心へ配慮する
皆さんおはようございます。今朝読む箇所も、当時の様々な事例を通して、新しい神の民としての心の姿勢や態度を教えられるところですね。こうした姿勢や態度を、誇りとし、喜びをもって大事にする気持ちが出てきたら、クリスチャンとして成長してきたことを意味するのではないでしょうか。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
(10)むち打ちの刑についての規定(25:1-3)
まず、むち打ち刑の執行について(1-3)。むち打ち刑の回数は、40回を越えてはならなかった。後に、39回が限度とされたが(2コリント11:24)、それは、むち打ちによってその人が必要以上に卑しめられないためである。たとえ刑罰が必要であろうとも、人間としての尊厳には配慮しなくてはいけなかった。罰は人間を正すものであり、ダメにすることを目的としない、それがユダヤ式の考え方である。しかし、イエスは、ユダヤ式ではなく、ローマ式の、つまり無制限のむち打ち刑を受けている。イエスが味わった苦しみは、身体的な苦痛以上に、ユダヤの社会では、非常に不名誉な、公衆の面前で卑しめられ、人間の尊厳に対するいかなる配慮の余地もないむち打ちであった。
(11)脱穀する牛に対する規定(4節)
人ばかりか動物にまで配慮を示す事が教えられる。事実、「正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である」(箴言12:10)、とあるが、パウロはこの聖句を引用して(1コリント9:9)、霊的な奉仕をする者が物質的な報酬を受ける権利があることを述べている。身近な事柄への必要に気づく、感覚の鋭さを持ちたいところではないだろうか。既に見てきたように、こうした細やかな心遣いができる神の民の共同体の歩みは、実に魅力的で、人をキリストへと勝ち取るものだろう。
(12)レビラート婚の規定(5ー10)
次に寡婦となった兄弟の妻の結婚について(5-10)。兄弟が死に、寡婦となった妻に子がない場合、彼女は、家族以外のよそ者に嫁ぐことができなかった(5節)。その夫の兄弟が彼女を妻とし、家系を存続する義務がある。この義務を兄弟があくまでも拒むならば、彼女は、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきをして、兄弟の家を立てない男と言わなければならない(9)。彼は「くつを脱がされた者の家」と呼ばれる(10)。この行為が権利譲渡を意味する儀式として、ルツ記4:7に出てくる。靴を脱いで裸足で歩くことは、奴隷にされることを意味し(イザヤ20:2)、つばきをすることは、屈辱と軽蔑のしるしであった。つまり、靴を脱がされ、つばきをされる者は、恥ずべき存在なのだ。家族は守られなくてはいけなかった。
ユダヤ人にとって家族は極めて重要で、このような寡婦の結婚の定めによって家を守る感覚は日本人には理解しにくいところがあるだろう。しかし、日本人も伝統的には「○○家結婚式場」などと書くように、結婚は家のものであって個人のものではないように、本来はお家存続を大事にしてきた民族である。このような結婚の考え方に、家族を守る思想を大事にしてきたことが重要で、そこをくみ取るなら、聖書の教えは、日本人として、家を大事にする発想をもう一度考えさせるところがあるとなる。
(13)妻のはしたない行為に対する刑罰の規定(11-12節)
また、男同士が争っている場に、どちらかの妻が出て来て自分の夫を打とうとしている男の急所をつかんでしまった場合、彼女の手を切り落さなければならないとされる。急所をつかむ恥知らずな行為が問題である。しかし言いたいことは、事情もわからず、ただ自分の夫を守ろうとして、相手の男性を危険にさらしてはならない、ということだろう。
(14)正しい度量衡についての規定(13-16節)
また、正しい計量について。二種類の異なる枡というのは、不当に利益を得ようとして使い分けることであるが、神はこれを忌み嫌われる。世俗的な社会では、上手な要領のよい、その場限りの商業取引が行われることはよくあることである。ばか正直に物事をやっているのは商売を知らない、世間知らずの者、という声が聞こえて来るようなことがあるだろう。しかし、そのような社会で、本当に必要なのは信用である。信用を失った商売は長くその損害の尾を引く。少しぐらい技能や才能に欠けている商売であっても、信用があれば立ち直ることができ、人々の心を動かし、祝福される。たとえ、地道であっても、神はご自分の民イスラエルに「完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい升を持っていなければならない(15節)と言われる。その生き方こそが、カナンの地で幸福な生活を長く続け、福祉社会を創り出す有効な方法であるからだ。
(15)アマレクに対する報復(17-19節)
これは、弱者への配慮を忘れたアマレクに対するものであるために付け加えられたものなのだろう。弱者に対する配慮、人の名誉を守ること、これは義務ではなく、私たちの心の内に刻み込まれるべき精神であり、新しい神の民の大原則なのである。