申命記26章、初物と10分の1の奉献
皆さんおはようございます。これまでは、新しい神の民がいかなる人間関係に生きるべきかを語ってきました。26章は、新しい神の民が、神に対してどうあるべきかを語っています。大切なのは、私たちが神の守りと導きによって神の恵みを受けながら生活していることを覚えることでしょう。それがわかれば、恵みに応答しながら生きることが私たちの責任であると同時に、喜びであることを受け止められるようになるものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
17)初物と十分の一の規定
(1)初物をささげること(1:1-12)
そこでまず教えられることは、地の産物の初物を携えて礼拝することである。イスラエルの民は、荒野の40年というもの、神の奇跡的なマナによって養われてきた。それが約束の地に入ってからは、農耕によって生活が支えられていくようになる。彼らは全く神の奇跡に依存する生活から、自分たちの手で耕し、実を得る生活へと移行していく。しかし、それは、もはや神の業を必要としなくなったということではない。事実、彼らの生活は、神が恵みの雨を降らせないなら成り立ちえないものであった。それは今日のビジネス社会でも同じで、神が様々な商取引の人間関係を守り、導いてくださるからこそ、私たちの生活は支えられている。そういう遜った思いがなければ、仕事上の失敗は避けられない。神の恵みに守られて、今月も守られている、収穫を得ている、仕事が進んだ、という思いを、ちゃんと初物を携えて礼拝によって表すことは大切なことなのである。
そういう意味では、教会の献金のささげられ方にしても、漫然と月定献金を捧げているようなあり方ではなく、入学、進級、出産、就職、転職、病気回復、という人生の変遷と節目、節目で、きちんと神の恵みを繊細に感じ取りながら応答し、献げていくことが大切なのだろう。献げられる金額も、献げようとするお金そのものも気持ちを表すように新しく準備し、祈りを持って献げることも応答の一つの形である。献げ物は、人格を持った神に対してなされるものなのだから、それなりの心遣いをもってしたいものだ。
(2)三年毎の10分の1(12-15)
次に、三年目ごとの10分の1のささげものが勧められる。それは、収穫物をレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに分かちあうものだ。主に対する礼拝は、「レビ人、在留異国人、みなしご、やもめ」に対する配慮と切り離すことができない。神を心から礼拝するものは、要援護者に対する配慮も怠らない。ただ、レビ人はいわゆる要援護者ではない。彼らは土地を持たず、収入の術を持たないために、配慮されるべき存在としてあげられている。今日で言えば、牧師・伝道師も同じであって、神を礼拝する者は、神の奉仕のために献身し、礼拝を導く者たちの生活に対する配慮も怠らないのである。そのように実践している、と主の前で告白するように教えられているところが重要だ。というのは、こういうことも教えられて初めて意識できる人もいるからだろう。言ってくれれば、そのような配慮は出来たのに、と思う人もいるものだ。牧師・伝道師はどうやって生活しているのだろうか、と疑問を感じていながら、その生活を支える責任が自分にあると自覚することは、また別物であったりする。やはり牧師・伝道師に教えを受けるだけではなく、その生活について配慮する。しっかりと教会で支えることを考え、牧師・伝道師が本来の御言葉と祈りをもって、教会内外の種々の霊的な職務に専念できるように心遣いをするのは信徒の務めなのである。なすべきことを当たり前になしていける者でありたい。
18)モーセの第二の説教の結び(16ー19)
最後に、神の恵みの契約の更新が確認されている(16-19節)。神にとって、私たちは「宝の民」であり、主の命令を守る者は、すべての国々の上に高くあげられるとされる。ただ現実は「傷ついた者のたましいは助けを求めて叫ぶ。しかし、神はその愚痴に心を留められない」(ヨブ24:12)と思わされることが多いものだろう。しかし出エジプトが現実であるとするならカナン入国の恵みもそうである。神は私たちを、窮状と労苦と圧迫の中にあっても、必ずや力強く導き出される、そしてさらに勝利を重ねる祝福を注いでくださることを信じていきたいものである。