申命記27章 モーセの第三の説教
皆さんおはようございます。今日と明日で、モーセの第三の説教を見ていくことになります。それは、新しい世代との契約を更新する目的を持ったものです。律法を自らの喜びとし、これに従うように教えます。信仰を持ち、キリストの命に与る素晴らしさの一つは、正しいことをすることに、喜びを感じるようになることで、それを誇りとし、そのような歩みを一層願うようになることです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.契約更新の命令
1)律法についての三重の命令
(1)律法を銘刻する(1ー8)
モーセとイスラエルの長老たちが、民に命じて言った。「ヨルダンを渡る日に、大きな石に、このみおしえのすべてのことばを書き記しなさい」と。具体的には、申命記12-26章に記されている内容、つまりモーセの律法と戒めの全てである。そう命じられたのは、主の御教えを読み確認し、聞き従う備えとするためであった。彼らはその石の前で、主の民となったことを宣言し、主の命令とおきてを守るように命じられる。また全焼のいけにえをささげるための石の祭壇を築くように命じられている。全焼のいけには、全き献身を意味するものなので、自分が主の民として完全にささげられたものであることを、そこで覚える意味があった。
今日の私たちには、聖書が与えられている。それは、永遠に変わらぬ神のことばを記したその石の前に立つのと同じであって、その度に自分が主の民であることを深く自覚し、今日も主に自分を完全に献げて生きるべきことを覚えるのだ。
ただ新約聖書における重要な対比は、石の板と紙の聖書ではなく、石の板と「人の心の板」である。パウロは「あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。」(2コリント3:3)と言う。つまり、私たちは、異教の民の間に設けられた白い石そのものであって、私たち自身が目に見える神の御教えである。エバル山に建てられたその白い石は、遠くからでも、はっきりとその存在が明らかにされた。イエスも、「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」(マタイ5:14)と言われる。私たちは、白い石の板として、異教の世にあって光り輝く存在であることを忘れてはいけないのである。
(2)従順の命令(9、10)
9節後半、「静まって聞きなさい」と命じられる。「あなたは、あなたの神、主の民となった」主の民としての自覚からすべてが変化するのだが、その自覚は静まることによって得られるのだ。だが、私たちには静まる時がほとんどない、ということがあるだろう。朝起きては、急いでご飯を食べ、仕事に出かけ、仕事に集中し、帰ってきてからはTVに目を向け、疲れたと寝る。その繰り返しで、静まり、神の言葉に聞く時間はほとんどないことがあるのではないか。余暇もたまに自分の時なのだから、と自分の楽しみに熱心で、静まって聞く時は人生にほとんどない、と言ってよいことがあるのではないか。しかし、静まって聞くところに、主の民としての自覚と行動も形づくられるのである。
(3)厳粛なのろい(11ー26)
14節以降ののろいの宣言と応唱は、モーセの十戒を基礎とし、個人的な生活に関わる内容を確認するものとなっている。ゲリジム山とエバル山に12部族が分かれて集まった。ゲリジム山に集められたのは、ヤコブの妻レアとラケルの子孫である6部族、エバル山に集められたのは、レアとラケルの女奴隷の子孫の6部族である。そこで、レビ人が12ののろいの言葉を大声で宣言するたびに、民はアーメンと応唱した。
これらの戒めに従うことが、彼らをエジプトから救い出し、約束の地カナンに導いたわけではない。しかし、これらの戒めに従うことは、彼らが共に平和に過ごし、神の祝福を楽しむことを可能にするものであった。確かに、私たちの救いは、神の恵みと力によってもたらされたものであるが、救われた生活の祝福は、神の戒めへの従順を求めている。救いはただ神のあわれみにより、イエスの十字架の恵みと聖霊の働きによるものである。そして、救いの完成は、私たち自身の献身を求めている。それは、神を生活の隅に押しのけていて実現するようなものではない。自ら祈り、聖書に親しむ中で完成されていくのだ。