申命記 3章 ヨルダン川東側の占領と西側占領の準備
<要約>
皆さんおはようございます。ヨルダン川東側の占領と西側の占領の準備が記録されているところです。ルベン、ガド、マナセの半部族は申し出の通り、東側を約束の地として受け継ぐことになりました。しかし彼らの戦いはこれからでした。主にある兄弟姉妹の戦いが残っているのに、やれやれと腰を落ち着けてしまうのではなく、いよいよ、手を取り合って祈り、支え合っていく、そこにキリスト者の愛の深さが現れるのです。今日も主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
3)回想:バシャン・ギルアデの占領、土地の分配、更なる挑戦
イスラエルがバシャンを征服した様子が描かれる。高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々をイスラエルは攻め取った。
(4)バシャンの王オグの国を占領(3:1-11)
攻め取った町の数60。38年前に、偵察隊の報告によって「背の高いアナク人」や「城壁が高く天にそびえている町々」に恐れおののき、不信仰に閉じ込められたイスラエル人が、今や、臆することなく戦い、主の助けによって勝利を重ねている。バシャンの王オグは、レファイムの生存者であり、その鉄製の寝台が約4メートルに及ぶことを特記するのも、彼らがどのような脅威を乗り越えたのかを示しているのだろう。
(5)ヨルダンの東側の地の分配(3:12-17)
12-22節は、占領したヨルダン東地区、シオンとオグの王国について、その領域とその地を受け継いだのがルベン族とガド族であることが記録される。大切なことは、これが彼らの信仰経験の基本になったことだ。著者は神の言葉を伝えて言う。「見よ、わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めている。占領し始めよ。その地を所有せよ」(2:31)と言う。そこで彼らは主のことばを信頼し「バシャンへの道を上って行った」(1節)。だが、それによって直ちに道が開かれたわけではない。敵は「迎えて戦うために出てきた」のである。しかし主は、約束通りに敵を「私たちの手に渡された」(3節)のだ。
この経験は彼らの信仰を形作るものとなった。「主は、あなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも同じようにされる」(21節)と語られる。これから先も主は、同じようにして私たちのために戦われるし、私たちに勝利を与えられる、と言う。この戦いの始めにモーセが恐れていたことは確かである(2節)。誰であれそれは恐れることなのだが、神にあって恐れることはないことを私たちは学ばなくてはならない。
(6)ヨルダン西側征服の準備(3:18-29)
こうして神はヨルダン川の東側の地を、ルベン、ガドの二部族とマナセの半部族に与えられたが、全イスラエルにとっては、戦いはまだこれからであった。だから、これらの二部族半の勇士たちは、みな武装して、むしろ他の「同族」(あなた方の兄弟たち)、つまりイスラエルの子らの先頭に立って、ヨルダン川を渡っていくように、と勧められる。その背景は、民数32:1-31を確認しておこう。
さて、3章の残りの部分は、モーセの祈りが記録される。モーセの神に対する懇願は受け入れられず、ヨシュアが新しい指導者として任命された。申命記では、モーセが約束の地に入れないことよりも、その地を受け継がせるように後継者ヨシュアを立て、主が約束を果たされようとしたことが強調される。モーセは、主の力強い御手のわざが自分を通して示されたことを訴え、自分も約束の地に入ることができるようにと願っている。しかし神はそれを許されなかった。それは、メリバにおいてモーセとアロンが主の言葉に背いて神の聖さを現さなかった、たった一度の衝動的な怒りのためで、反逆の民を40年間導き続けた指導者モーセの労苦を思えば、あまりにも厳しすぎるようでもある。人情からすれば、エジプトからの大脱出を成し遂げたご褒美に、モーセの最後の望みをかなえてもよさそうなものを、というところだろう。しかしモーセは、神のご計画に自分を従わせている。神の御意志がすべてであることを理解している。もちろん、神はあわれみ深く、恵み深い神であるし、忠実な者によくしてくださるのだが、モーセが約束の地に入ることは神のみこころではなかった。その理由はわからない。私たちが、執拗に何かを願い、自己愛に傾く時にこそ、むしろ一歩、その思いから退いて、神に全てを委ねる気持ちを持つことが必要である。神は私たちに常に最善をなしてくださるのだから、私たちは神が私たちに諭し、示されることでよしとする従順さを持ちたいものである。祈りの中で、神の意志を問うことがあっても、神の意志に従う気持ちをもっていく。
そして神が自分に与え続けておられる任務を見出し専心することが大切である。神は人情のないような方ではない。もはや用なしといって、古びた者を退けることはないからだ。命ある限り新たな任務を与えられる。彼の任務は、ヨシュアを力づけ、励ますことにあった。やれやれと腰を落ち着けてしまうことなく、他の者も同じ恵みにあずかるまで、キリスト者の責任を果たすべく、地上にある旅人としての歩みを許される限り、任務に徹することである。