申命記34章

申命記34章 モーセの死と結語
4.モーセの死と結語(34章)
皆さんおはようございます。申命記を読み終わりますね。モーセの死から多くのことを学びます。私たちは、誰もが死を迎えます。大事なことは、神にその死を取り扱っていただくことでしょう。み言葉と祈りを通して神と共に歩む地道な一歩一歩が、有終の美を飾るのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1)モーセの死(1-7節)
 申命記の最終章は、モーセの死の記録である。モーセは主に命じられてピスガの頂に登った。そこで主は彼に約束の地を見せている。「ギルアデをダンまで」は、死海の北東端の東9キロ、ネボ山と同定されるピスガからはるか北になる。「ナフタリの全土、エフライムとマナセの地」いずれも北側の地であるが、エフライムとマナセは、ナフタリの手前に位置した。「ユダの全土を西の海まで」は、ピスガから西側と南西側である。つまり、北側から始まり、西側、そして南西側へと視線が動いていく。モーセは、パレスチナ全土を眺望した、ということだ。
しかしながら、ピスガの頂は、ヨルダン川の東部に位置し、標高は700メートルである。つまり、パレスチナ山脈にさえぎられて西側の海を見通すことは実際にはできない。だから、実際に肉眼で見たというよりは、信仰によって見た、ということなのだろう。
ともあれその地は、主なる神が、アブラハム、イサク、ヤコブに対して「あなたの子孫に与えよう」と誓われた地である。となれば、地理的な広がりのみならず、歴史的な流れの中から、モーセはその地を眺めていたというべきだろう。つまりモーセは神の視点からその地を見ている。実に、信仰を持って何事も見ていくのでなくして、新境地などありえないことである。
 モーセが死んだ時は120歳であったが、「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」(7節)とされる。しかし、その身体は確実に衰えていたのであり、モーセはもはや、「もう出入りができない」(31:2)と語っている。人は老いていくものだ。日々刻々と老いているのに、それに気づかない。人は、神の任務を背負い、その働きを遂行し続けながらも、確実に老い、退く時を迎えていく。神は人それぞれに任務の完了の時を与えておられる。  
またモーセは、主の命によって、つまり主のことばのとおりにモアブの地で死んだ(6節)。大切なのは、そこで「主は彼を葬られた」とあるように、モーセを葬ったのは主であることだ。主ご自身がモーセの労をねぎらい、葬ってくださった。
 モーセは、神のみこころに生き、神のみこころのうちに死を迎えた。もし、神のみこころに生きる事に徹するならば、神が私たちを葬り、迎えてくださることだろう。そして死に際して重要なのは、葬儀が荘重に行われ、この地に足跡を残すよりも、確実に神の御手によって葬られ、神に迎えられることだ。身体は土に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。となれば、神畏れ、神に従うことが、最善の終活となる。
2)イスラエルの前進
またモーセは神の召しに忠実に生きた。彼は、エジプトを懐かしみ、過去に戻ろうとするイスラエルの民を前進させ続けた。約束の地にまでモーセは同行できなかったが、いつでもモーセはイスラエルの民に約束の地を指さし、これに向かわせた。神に立てられた指導者の任務は、民に前進を促すことである。うなじの固い民と称された者たちに、戒めと励ましを与えながら神のみこころに沿うように、前進させ続ける、そこに真に神に従う指導者の責務がある。それはまたイエスの働きを象徴している。神はイエスを通して、私たちには出エジプトに等しい罪からの解放を成し遂げてくださったからである。
「モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わり」新しい指導者ヌンの子ヨシュアが立てられる。「イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられた通りに行った」(9節)と言う。神の民は、新しい指導者に導かれて新しい章を開いて行く。どのように死を飾るかではなく、死に至るまでの最期までのプロセスを大事にしたいものである。

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