申命記4章 神を認め神に従うことの勧め
<要約>
皆さんおはようございます。申命記は新しい律法ではなく、これから約束の地に入ろうとしている、荒野で育った新しい世代に対する、古い律法の再述です。彼らもまた、古い世代が受け止めた律法の精神を理解しなくてはならなかったのです。しかし何よりも大事なこととして教えられているのは、律法を覚えると同時に、律法を行う力のない罪人の無力さを覚えて、謙虚に神のあわれみによりすがる心を持つことです。今日も主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
3.教え
1)み教えの目的とその価値(1-8節)
1-3:29まで、出エジプト後の40年の歴史を回顧した後、モーセは、ヨシュアと民を新しい地に送り出すために、その歴史を踏まえて、まず「おきてと定め」に対して従順であるように、と勧めている(1-40節)。「聞き、それらを行いなさい」(1節)「守り行いなさい」(5節)とあるように。「おきてと定め」に聞き従うなら、約束の国で長く幸せに生きることができる、また、自らの知恵と悟りを示すことになる、と言う。モーセは、荒野で成長した新しい世代に対して、カナンに入る前に律法を反復し説明する必要を感じ、再びこれを語ろうとする。申命記は、新しい律法を教えているのではない。それは既に与えられているものの復唱である。
そこで3節、戒めのためにバアル・ペオルがあげられる。イスラエルの新しい民の新しい出発を挫いた事件で、それは、イスラエルの民が、敵の呪いによらず、自ら正しい道を外れ堕落したこと、呪われるべきことを行ったことに注意を向けるものである。イスラエルはモアブに誘惑され、神から心を引き離される偶像崇拝の罪を犯した。そのエピソードの本質的な教訓は、どんなに高く素晴らしい教えがあっても、それを唱えているだけではだめで、私たちの堕落した性質が、その教えを行う力のないことを覚える謙虚さをもって、主の十字架にある罪の赦しと聖めにすがり続け、主の高さに導いてもらうことを願いつつ、行いが実ることを心がけることにある。主がそのみ業をなしてくださる、と主にすがりつづける信頼の歩みを大事にすることである。
そうすれば、私たちは、神の祝福と、神に信頼する素晴らしさを証しすることになる(6節)。私たちは神を愛し、信じ、従う民として、神の祝福を世の人々に示すばかりではない。私たちがいかに神にあって知恵ある者であるか、を示すことにもなる(8節)。
2)偶像礼拝の禁止(9-24節)
そこで、「おきてと定め」の第一として、バアル・ペオルの教訓である自分自身に十分に気を付け、偶像礼拝に陥ることのないようにと教えられる(11,15節)。イスラエルの民は、神の山ホレブで、語りかける神の「声を聞いたが、御姿は見なかった(12節)」、主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に「何の姿も見なかった」(15節)。その体験を一生忘れてはならない、とされる。神は存在しつつも無形のお方である。だから、どんな形の彫像も作ってはいけない、とされる。地上にあるどんな形に似せてもいけない、と。エジプトには、雄羊やわになどの形をした神々、空を飛ぶたかの頭をもった神々、また太陽神ラーや月神、その他ありとあらゆる形を持った神がいた。それは、日本も同じである。日本にも様々な形に彫られ、刻まれたものが神々として拝まれている。それらは、形こそあっても、実態があるわけではない。見ることも、聞く事も、食べることも、かぐこともできないただのモノである。命を持っているわけではない。しかし、まことの神は、霊であり、目に見ることはできないが、確かに臨在されるお方なのであり、そのお方を覚えて恐れなくてはならない。そして霊とまことをもって礼拝しなくてはならない。
実際、神は、私たちを「鉄の炉」エジプトから導き出したお方である。神は、私たちを滅びの中より救いだされたお方である。だからこそ、その神を認め、その神に従う関係が生じるのである。神のあわれみを経験する、それが信仰の出発点である。
3)契約を破った時、あわれみ深い神を覚える(25-31節)
だが、私たちの信仰生活はしばしば順風漫歩ではない。罪人の私たちにとって、主の目に悪を行い、御怒りを引き起こすことが多々あることは免れ得ない。神はそのような私を裁かれるだろう。だが、そこから「主を探し求め、心を尽くし、いのちを尽くして求める時、あなたは主にお会いする」(29節)と神は約束される。神は目に見えないお方ではあるが、無機質な存在ではなく、愛情豊かなお方である。自ら、ご自身を「ねたむ神」であるとも言う。ねたみは、人間の心の奥に生じる最も人間的な感情である。神は、私たちに対する熱い思いをもっておられる。深く私たちを愛しておられる。つまり、神は私たちを愛と憐れみを持って、救い出されるだけではなく「あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない」(31節)情の深さを持ったお方である。神は単に霊的な超絶したお方ではなく、人格を持った存在であることを、私たちは忘れてはならない。
4)神への忠誠の勧め(32-40)
その神のことばに、私たちは日々、向かい合って生きていくことが大切なのだ。ただ、聖書を学ぶのではない。教えられるのではない。人格的存在なのだから、まさに神と良き時を過ごすのである。「心をつくし、精神を尽くして」(29節)というのは、「全身全霊をもって」という意味ではない「全心、全霊をもって」である。天にも地にも、他におられない、唯一の生ける神に向かい合って、このお方以外に神はいない、主だけが神である、と真摯に神のことばを受けとめながら生きていくところに、私たちの歩みがある。神が人間に求めておられることは、品行方正に生きることでも、極めてストイックに生きることでもない。ただ、主の偉大さとその御業を覚え、主の契約を握りしめ、主に寄りすがり続けること、神を認め、神の約束に信頼しつつそれに相応しい歩みを願うことにある。
5)ヨルダン東側の逃れの町(41-43)
民数記35:9-15、ヨシュア20:1-9と並行した記事である。哀れみ深い神の意志が、「逃れの町」の制定に現れている。故意にではなく、誤って失敗をした者の基本的人格が守られるために、逃れの町が定められる。本当のあわれみは人間の意思と人命とを大切にすることを良く示している、と言えるだろう。