15章 神を恐れることから始める
おはようございます。なかなかまとめにくい箴言ですが、14章、15章と、主との関係で格言をまとめているところに注目させられます。つまり知恵ある生き方の根本に神を恐れることが意識されている点です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神の存在を認めていく
今日も注目されるのは、知恵ある生き方と神との関係である。人は、物事の法則を見出そうとする。しかし、大切なのは、物事の法則を成り立たせている、神と呼ぶべきお方、天地と人をお造りになった神の存在に注目することなのだろう。
神の目は万人に注がれており、何一つ、神の目に隠れるものはない(3節)。「悪者のいけにえ」「心の直ぐな人の祈り」つまり神は表面的な部分ではなくその内実を見ておられる(9節)。神は、よみと滅びの淵を見通すお方なのだから、人の心の底など手に取るようにわかるだろう(10節)。こうして、神は、悪人を相手にせず(29節)、高ぶるものを破滅させ(25節)、善人や貧しい者、そして神を恐れる者をご自身に近づけてくださる(24、29節)。
全て営みが神の守りと神の支配の中にあることだ、とすれば、人生は、いわゆる要領のよい知恵だけでは何ともならないものなのである。神がこれを仕切っているのだから。思慮深く生きながらも、そこに神の助けがなければ、知恵は生きてはこないのである。神は飾り物ではない。神が私たちの人生に介入し敵にも味方にもなる。となれば、まさにその神を認めることが知恵の入り口であるだけではなく、知恵の道全体である。そしてこの神とよき時を過ごすことが、結果的には、私たちの生活に最善の祝福をもたらすことになる。神の知恵を身に着けたければ、神を恐れることだ。真に心から神の前に謙虚に生きることである(33節)。
2.内側、心に注意する
神を恐れる信仰は、人の心の中のことなのだが、それは外のこと、いわゆる舌や唇、そして行動に関係する。言葉は人を癒しもし、傷つけもする(1,2節)。優しい言葉は人を励まし、皮肉交じりのことばは人を腐らせる(4節)。教育も、教育する者の質がよくなくてはできない、教育されることを厭う愚か者に、人を教えることはできない(5、7節)。悟りのある人は、賢くなろうと努力するが、愚か者はそうではない。心の姿勢が違う。悩みを抱えずに、心の楽しみを大事にして生きることだ。そうすれば、毎日が宴会のようになる(15節)。それは、ただ主を恐れて、主の交わりの中で生きる、それだけで人生は十分幸せになる、と心得るところから起こる生き方である。しかし、人の世にあるものを羨み、妬み、自分も手にしたいとあくせくして生きるのが人間の常であり、それが混乱のもとである(16節)。人よりいい暮らしをしようなどとは考えないことだ。粗食で、味付けもせず、素材を味わいながら愛する者たちと楽しく食事をする方が、よくわからないテーブルマナーを気にし、互いの腹を探りながら高級料理を食べるより楽なことはわかりきったことだ。悟りを得ることだ(30節)。神のみことばの真理によって解放された人生を生きることである。