21章 主の知恵に生きる
おはようございます。箴言改めて読んでみると、これは、単なる人間関係の知恵、実利的な知恵を語っているものではなく、主を恐れるように語り掛けてくるところがあるものですね。一節一節味わいながら、その根底に流れている思想を捉えるようにしたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神が中心である
20章で学んだことは、この世では神が中心である現実をよく理解せよ、ということだった。ならば、一国の権力者と雖も、その運命は主の心の内である(1節)。それを知らずに、人は、自分の人生を計画する。大事なことは、その時に、どんな動機づけを持って自分の人生を組み立てようとしているかである(2節)。最終的に人間らしく生きるということは、正しい生き方をする、ということに他ならない(3節)。人間にとって品格が全てなのである。高ぶりと罪、これが人間の現実であっても、人間は、神にあって良き者として造られた存在である(4節)。人間としての誇りを持って行きたいところだろう。だから勤勉さは、人間らしさの証である(5節)。悪いことをしてお金を儲けようとしないことだ(6節)。そんなことをしていれば、終いには自分で自分の首を絞めることになる(7節)。人徳は、その人の生き方にはっきりしてくるものだ(8節)。争い好きな女とは距離を置け(9節)。悪人も同じだ。傷つけられないようにせよ(10節)。罰せられる前に、悪いことは悪いと見抜く賢さを持て(11節)。神様はちゃんと悪い者を見抜いておられる(12節)。たとえば貧しい人を助けない者。こういう人は自分が困った時にも助けてもらえない(13節、マタイ18:23-24)。14節、「ひそかな贈り物」は、人の仲介を経て差し出されるもの、「懐の賄賂」は、直接的に渡されるもの、を意味する。いずれにせよ、贈り物は人を買収する。だが、正しさを追求されるなら、正しい人には朗報であるが、悪人にとっては訃報である(15節)。賢明さを失わないことだ(16節)。悪人の道は死に至る道だから。刹那的で、一時の享楽を求めた生き方は、神の期待するところではない(17節)。最後に勝つのは、悪人ではなく正しい人である(18節)。賢い結婚の選択をせよ。いつも機嫌が悪く、不平たらたらの妻、そんな妻と一緒に人生を歩む羽目になるよりは、世捨て人になった方がましだから(19節)。将来をよく考えて人生を歩むことだ。アリとキリギリスに学べ。浪費癖はつけないことだ(20節)。むしろ、正しさと愛の浪費家になれ。そのような人は、幸せな長寿と、正しい評価と尊敬を得るようになるだろう(21節)。神がこの世を支配しているならば当然の結末である。大切なのは、神を恐れる知恵である。主の軍の将に下ったヨシュアが、エリコを征服したように、優れた知恵ではなく主に与えられる知恵によって人は窮状を打開する(22節)。軽率な言葉、短気、無思慮(23節)、ほら吹き(24節)、怠け(25節)、すべて人間の品格を下げるものである。わざとらしい見かけの宗教的敬虔さ(27節)、偽りの証言それは、神が忌み嫌うものである。神が中心であることを弁えて歩むことだ(29節)。主によってアヒトフェルの優れた知恵が退けられたように(2サムエル17:14)、キャスティングボードを握るのは、主であり、主が与えられた知恵に生きることが決定的である(30、31節)。