24章 生き方において袂を分かて
おはようございます。箴言を読み進み、ただ聖書に教えられる、という知的満足に終わらず、その教えに生きる決意をすべきところでしょう。聖書に教えられていながら、世の中の人と考え方も行動も同じ、であってはなりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.生き方において袂を分かて
詩篇がすべてダビデの手によるものではなくてもダビデ的であるように、箴言もまた、すべてソロモンの手によるものではないとしても、十分ソロモン的な知恵の書と言うべきだろう。箴言は、指導者としての発言、印象深い人生訓、そして進むべき人生の指針がまとめられている。22:17~24章の最後までは、どうやら、著者が、エジプトの知恵の書を利用した部分と考えられているが、それでも単なる引用ではなく、ソロモン的な精神による神の民に必要な格言を言い換えて組み込んだ、と理解すべきところである。
だから1節、悪い者たち、つまり神を信じないような者たちとは、その生き方において一線を画せ、と勧める。神を信じ、知恵に寄り頼む者は、賢い計画、慎重さ、勤勉さを大事にするのである(3-4節)。また与えられている人間関係を大事にする(5-6節)。だが、愚か者、神を信ぜず、神に寄り頼まない者はそうではない。町の門は、古代において教育の場であった。そこで声を上げる知者に人々は耳を傾けた(8:1-3)。しかし愚か者に聞くべき言葉はない。彼らにあるのは、不快な計画、聞くに堪えない大言壮語である(8-9節)。
10節、苦難はいつまでも続くものではない。ダビデが苦境にあって主によって奮い立ったように(1サムエル30:6)、気落ちしない、それが正しい者の生き方である。また、社会においては、不条理に闇に葬り去られそうになる人々がいるものだ。正しい者は、そこで、見て見ぬふりをしたりはしない。神もそうだから(11-12節)。蜜は、知恵、つまり、神の言葉の象徴である。神のことばに寄り頼む者には常に望みがあると心得よ(13-14節)。正しい者は、決して倒されて終わりということはない(15-16節)。また正し人は、他人の不幸を喜ぶことはない。というのもたとえ敵のような者であれ、神の裁きは、彼の悪に対する十分な報いだからだ。あなたの恨みは既に果たされている(17-18節)。主を恐れることだ。そうしない者とは、生き方において袂を分かて
2.付加的な知恵
24節以降もまた、知恵ある人々の格言集をまとめたものである。統一した文脈を掴むのが難しいところである。23-26節は、正しい裁判の重要さ、27節は、家庭を持つ前にまず経済的な自立を教える。当時は農地で生計を立てられるようになることがその基準であった。28-29節は、人に悪を企てない、悪をもって悪に報いない、善を行え(ローマ12:17)というパウロの思想に通じる。最後に、怠け者の安逸な生活に学ぶこと(30-34節)。怠けた人生の収穫は少ない。自らの明日が築かれるような生き方をすることだ。現代は、物質的には豊かな時代である。しかしその精神性は実に貧しい。何事につけ、見通しも深さもない。だからこそ悪いことと正しいことの区別もつかないし、神を認める力もない。