25章 忍耐と自制
おはようございます。25章からは、ヒゼキヤの時代に集められたソロモンの箴言です。王であるヒゼキヤの関心は、まず王としての箴言、そして臣下の心得と言うべきものだったと思われます。その要点は、忍耐と自制にあるのかもしれません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.王の箴言
ヒゼキヤといえば、ソロモン王から200年も後に登場する王であるが、その時代にソロモンの箴言を見つけた人々が書き写した部分である、という。200年間、どこにどのように埋もれていたのか。不思議でもあるが、ヒゼキヤは、この箴言に価値あるものを見いだした。
彼は王として、まず王に関する箴言に興味を抱き、これを取り上げている。神と王は、紙一重の存在であるが、別物である(1,2節)。日本の過去においても、天皇と神が同一のように見なされた時代があり、天皇を神と認めないキリスト教の牧師が弾圧を受けた時代があった。戦後のGHQによる神道指令によって、もはやそのように考える人は誰もいなくなったが、指導者の神格化の問題はいつでも起こりうる問題である。大切なのは、指導者の周りにどのような人たちがいるかである。王のみならず、官僚もまた人間として正しい者でなければ、善政は成り立ちえない(4,5節)。
2.臣下の箴言
そこで王のしもべたちに対する大切な心得が語られる。まず人間としての謙虚さを忘れないように。イエスも教えられたように(ルカ14:7-11)自分から名誉を求めるようであってはいけない。次に8節、急いでは事を仕損じる、特に、告発においては。逆に訴えられた時には、事実のみを取り扱い、是々非々で対処することだ(9-10節)。冷静沈着が物を言う。11節、本当に知恵ある人は、適切な時に、的確な言葉を発する(11節)。彼の叱責も、簡にして要を得たことばで、相手の心を掴むものとなる(12節)。忠実な使者は、文句なしに称賛に値する(13節)。贈り物の約束には注意せよ。人をがっかりさせないことだ(14節)。「柔能く剛を制す」と言うではないか。優しく、思いやりをもって語り続ければ、頑強な心をも、いつかは開かせることになる(15節)。
16節、誉め言葉もほどほどに、である。それは、近所だから度々訪問しては迷惑なのと同じだ(17節)。相手の気持ちや心の内をよく洞察することだ。人は平気で虚偽を述べ立てる。しかしそれは、殺人に等しい。根も葉もない虚偽で、人生をめちゃくちゃにされた人には、良く理解できることばである(18節)。だがそうであればこそ、どんな人と付き合うべきかをよく見極めることだ(19節)。知恵ある人は、他人の心の機微をよく理解し配慮ある人である(20節)。また、敵には、親切を尽くす(21-22節)。イエスも(マタイ5:44)、パウロも(ローマ12:20)同じ考えである。神の愛の深さに生きる者であればこそ、そこに敵をもうならせる人望が生じる。陰口は言わないことだ。北風と同じ厳しい結末をもたらす(23節)。神を恐れる生き方を台無しにしないように注意せよ。それは、あなただけの問題ではない。暗き世の光を消してはいけない(26節)。