29章 主のことばがなければ
おはようございます。今日の箇所も、まとまりを見出しにくいところですが、王の倫理、王の在り方を考えているもの、という観点から見ていくと、一つの筋が見えてくる気がいたします。神のしもべとして立たされている者に必要な教えとしてよく理解したいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.指導者の倫理
1節「うなじを固くする者」は、頑固な者を意味する。責められても悔い改めることがないので、矯正が難しい。指導者には、正しくあって欲しい、誰もが願うことだ(2節)。しかし、実際に正しい人が指導者になるわけでもない。組織は矛盾に満ち、期待通りの人がトップに立つとは限らない。ただ正しいことをなさる神がいる。正しい人は残され、重税を取り立て、国民を大事にしない指導者は、いずれ失脚していく。レハブアムがそうであったように(4節)。どんな臣下を持つかに注意せよ。へつらう者を家臣にしないことだ(5節)。人生は罠と落とし穴に満ちている。そして、自分で罠を仕掛けるような悪人は自ら滅ぶ。ハマンがそうであったように(6節)。むしろ正しい指導者は、弱い者への配慮を怠らない(7節)。またエペソの書記官がそうであったように(使徒19:35)、大衆の怒りを鎮めようとする(8節)。しかし愚か者が相手の裁判は実際には容易ではない(9節)。無駄な努力となる。まさにイエスの十字架が示すとおり、罪の世は不正とあざけりの中に、正しい者を飲み込んでしまうこともある(10節)。愚かな者は、怒りをぶちまけるだけだ。知恵ある人は自分を制するのだが(11節)。類は友を呼ぶ、君主が君主なら、家臣も家臣である(12節)。正しい王は、神の目線で物事を見る。貧しい者、金持ち、と人を分け隔てせず、愛すべき人として見る(13,14節)。子どもの教育は、父ばかりではない、母の責任でもある(15節)。もちろん、暴君が興れば、神がこれを正される(16節)。しかし、暴君を育てない家庭教育が重要なのだ。子どもはしっかり躾けるべきで、心を砕いた努力は報われる(17節)。
2.神の言葉に生きる
18節「幻」は、「主のことば」(1サムエル記3:1)、「預言」(イザヤ1:1)とも訳せる。つまり2行目の「律法」と合わせて理解すれば、ここに律法と預言が登場し、「主のことば」そのものという意味で理解できる。要するに、「神のことば」がなければ、人は好き勝手に振る舞うということだ。士師記の時代がそうであり、現代もそれに近いように思われる。神のみおしえを守る者は、幸いである。それは、悪者が支配する時代にあっても、神のなさることに希望をつなぐことができるからだ。
大切なのは、神のことばに沿って、民を訓練する指導者が現れることだ。ただ、神のことばは語って聞かせるだけではだめである(19節)。自ら範を示し、神のことばを食むように語り聞かせ養育する努力を惜しまない指導者が必要なのだ(17、19、21節)。思慮深く語れ(20節)。若い者を甘やかさない(21節)。怒りやすさや(22節)高ぶり(23節)、不正を捨てて(24節)、ただ神を恐れ(25節)、神の裁きを尊重する(26節)、そこに神の守りがある。闇と光は混じることがない(27節)。神の側に立つ者は、神が支えてくださる。