5章 愛すべきものを愛せよ
おはようございます。姦淫に対する戒めが語られます。鍵は、この女性が、知恵を追及しないよそ者の女性であること、つまり、刹那的な喜びに心を向けて生きているところなのでしょう。知恵を追及して生きる者の、人間関係の中心をどこに置くかが問題です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.よその女
女性との関係について、率直に語る章である。3節「よその女」は、種々に解釈されてきた。遊女、いわゆる売春婦と理解する者、外国の女性、ことに異教的な習慣を持ったカナンやフェニキヤの女たちと理解する者、さらには象徴的にとり、他国の性的な要素を持った宗教、たとえばアシュタロテのような偶像と理解する者、と様々である。しかしここでは、いわゆる遊女と取る方が自然である。彼女は「知恵」を求めず、ただその時その時を、ふらふら刹那的に生きている(6節)。そのような女性とは関わるな、というわけだ。
2.先を予測した歩み
姦淫がどれだけ人生を台無しにするものか、結果を刈り取ってからでは遅い、と著者は、不貞の代価を示して警告する。尊厳を失い(9節)、財を失い(10節)、健康を損ね(11節)、何よりも神の民としての面目を失う(14節)。姦淫は、密かな甘い楽しみから始まって、最期は、砂を噛む苦さに苦しめられるものだ。肉体は、常に精神とつながっているから、肉体だけの関係で終わらず、精神的にお互いに傷つけあい、もつれ合う泥沼へと陥ってしまう。その時に、聖書の教訓を思い出しても遅いのである。
知恵は、ある意味で予防策である。事前に、最悪の結果を予測し、そのような事態に陥らないように生きているからこそ、知恵者なのであって、物事は知っているが、知っているとおりには歩めなかったというのは、知恵者ではない。昨日も語ったように、まさに知恵は、目、口、手、足の動きに結合されなくてはならないのである。大切なのは、予防策として知恵を生かせるかどうかである。
3.妻を愛する
著者は言う。姦淫してはならない、それはすなわち妻を愛せ、ということだ、と。「いつも彼女の愛に夢中になれ」(19節)、「夢中」と訳されたヘブル語の意味は「中毒」である。最初は、甘い水と思う姦淫の楽しみも、気づけば苦みのある味わいに苦しめられる。しかし、愛すべき妻との正しい関係における性の営みは、ワインを味わうごとし、ということなのだろう。貞節に優る道はない。
愚か者であってはならない。悟りの無い者であってはならない。主はすべてを見ておられるのであるし、その歩みの一つ一つを覚えておられる。誰が見ていなくても、主の前に、恥ずかしくない歩みをする。主の前に誠実な歩みをし、神の教えをただ知っているというのではなく、神の教訓に生きる歩みが求められている。23節「愚かさ」は、イウェレット。愚鈍と頑固さを特徴とする愚かさである。忠告を受け入れることができない、浅はかさである。真に知恵ある生き方を導かれたいものである。