100篇 礼拝への招き
おはようございます。礼拝の招きの詩篇です。95篇から続く一連の賛歌のしめくくりともなるものです。何故、主に賛歌をささげるか、それは、主に造られた者であることを覚えるなら、必然的なことと言わなくてはなりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
95篇から続く、一連の賛歌の締めくくりとなる。これまでの詩篇もそうであったが、この詩篇も捕囚帰還後に書かれたものと推測されている。とすればおそらく、礼拝への招きの歌として、会衆が神殿に入場する際に歌われたものなのであろう。
1節、「喜びをもって主に仕えよ」と礼拝への招きが語られる。かつてモーセは、神にエジプトからイスラエルの民を引き連れて、出ていくことを命じられたが、その時に言われたことは「あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない」(3:12)であった。捕囚帰還は、第二の出エジプトと言われるものであるが、イスラエルは同じように、主に仕える、礼拝する民となることを命じられている。実に、クリスチャンになること、あるいは神の民に加えられることは、礼拝の民となることに他ならない。私たちの生活の中心に礼拝が据えられる、ということである。
2.主を礼拝する根拠
それは神を信じる者の内に、主があってこそ私たちの存在であり、生活である(3節)、という意識が生じるからだ。この意識が甘ければ、結局、礼拝は二の次、三の次、時間があれば行く、気が向いたら行くになってしまうのである。
私たちの罪の性質は、いつでも目に見えない神を後回しにする。それどころか、サタンがアダムを「あなたは神のようになる」ということばで誘惑したように、私たちも、知らずにして、アダムと同じように、まことの神を退けて、自分を主としていることがある。神に仕えるのではなく、自分の欲や願いに神を従えようとしていることがある。しかし私たちは、ただ単に、神を信じている、のではない、キリスト教徒と改宗したのでもない、神に自分が造られた者であることを悟り、その主の権威のもとに立ち戻り、主と共に生きることを決意し、主にお従いし、日々主に養われていく身なのである。だからこそ週毎に、主に一週を守られたことの感謝をささげるために御前に進み出る、礼拝が待ち遠しくもなる。
3.主を礼拝する
4節、「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ」ソロモン時代の神殿では、壁に囲まれた内庭と、その外の大庭が区別されていた。イエス時代のヘロデの神殿には、神殿本体内に、イスラエルの庭(男子の庭)、婦人の庭、祭司の庭があり、その外側に異邦人の庭と呼ばれるものがあった。捕囚帰還後に建てられた第二神殿、いわゆるゼルバベルの神殿は、ソロモンの神殿とほぼ同じであったのではないかと考えられている。つまり、「大庭」(新改訳)あるいは「主の庭」(新共同訳)と訳されたヘブル語ハーツェールは、ほとんど神殿と同じ意味で使われていると考えてよい。神殿の庭は、主を喜びとする民で、埋め尽くされるべきだ、ということである。
教会も同じであろう。毎週、主を喜びとし、主に感謝する心を持った者たちが集まり、その席が埋められていく。感謝と喜びをもって礼拝に集い、主に仕える思いを新たに、礼拝を後にする。週ごとの礼拝がそのようであるなら、私たちの一週のリズムは生き生きしたものになるだろう。ともあれ、私たちのそうした喜びの源は、主ご自身にある。主のいつくしみ、主の恵み、主の真実、これらすべてが、私たちを感謝と喜びをもって礼拝に向かわせる、あるいは主に仕える主の礼拝の民となる根拠を与える。今日もしっかり主につながり、主への礼拝を第一とさせていただこう。