103篇 懐の深い神への感謝
おはようございます。空を見上げてみましょう。空の大きな広がり、奥行きの深さ。いつも東京の空を見上げる私には、帯広の広々とした空は印象的でした。神の心はそれほどに深い、神の恵み深さを覚えて、今日も、神が最善に導かれると信じて歩みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
「ダビデによる」とある。ダビデの作の中では、個人的な色彩の少ない、一般的な主題、賛美を扱う作品となる。しかし、実際にはダビデではなく、民族的な罪の赦しと神の恵みを詠う内容からして、第四巻に特徴的な捕囚期後の作で、聖都回復の喜びを詠うものとする説もある。
2.神の恵み豊かさ
この詩に嘆願はない。ただひたすら「主をほめたたえよ」と勧める。そして著者は、私たちが今まで神よりいただいた祝福を、あれこれ数え上げることを助けてくれる。まず、私たちにとって一番大きな感謝は、主が赦してくださって、和解の関係に入れてくださった、ことだろう。神は「すべての(注目すべき)」咎を赦された(3節)。本来は滅ぼされ、歴史の狭間に消えゆく虫けらに過ぎない人間が、神のあわれみといつくしみを受けるのである。そして滅びの穴から救われた(4節)。放蕩息子が、家の使用人としてではなく、息子として再び迎えられたことを思い起こすところだ。単に神は私たちを救ってくださった、私たちを神の家族の群れに加えてくださった、というのではなく、私たちを最愛の一人子として迎え入れてくださったのである。
そして救われて終わりではない。「あなたの一生を、良いもので満ち足らせる」(4節)という。詩人は、神がめぐみと愛に富む方であることを確信している。「主は、いつまでも争ってはおられない。とこしえに、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって、私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって、私たちに報いをされることもない」(9,10節)神は根に持つような方ではないのだ。繰り返し、自分の心に言って聞かせたい、ところではないか。もし神が、罪の代価を最後のびた一文まで支払うことを要求される、きっちりされた方であるなら、私たちの未来に希望はない。しかしそうではない。神は「咎にしたがって、報いをされることもない」(10節)お方なのだ。神の恵みは、空の高さに勝って遙かに大きい(11節)。空を見上げてみよう。神の懐の深さがどれだけであるか、感じたいところだろう。神は、私たちの罪を、はるか遠く、地平線のかなたに投げ捨ててくださるお方である(12節)。それは西と東、全く対極にあり、決して接近することのないものにたとえられる。神が忘れてくださったものをいつまでも覚えていてはならない。
3.神の恵みの下に生きる
神は私たちが単なる土くれに過ぎず、風に吹き飛ばされる籾殻のような,はかない存在である事をわかっておられる(15節)。そのような小さい身でありながら、神を畏れ、神の契約を守ろうとする者を、神は決して見過ごされることはない。主の恵みを経験するために大切なのは、私たちの側に、主の契約に立つ心、応答する心があるかどうかである(18節)。ヒゼキヤの場合は、神の恵みに応答しようとしなかった(2歴代32:25)。
詩人は、神の恵み深いご性質を語り、その神ご自身の支配の中に私たちがあることを、繰り返す。「主は、天にご自分の王座を堅く立て、その王国は、すべてを統べ治める」(19節)。この事実に立つ時に、著者が勧めるように、私たちの心には、主をほめたたえる思いがわいてくる。しかも私たちが神を賛美する時は、私たちだけではない。天の軍勢も、すべての被造物も神を讃える。すべての賛美に、声を合わせて、心からの賛美をささげたいものである。