104篇 茫漠から創造される神への感謝
おはようございます。創世記1章の構造に重なる詩篇と言われます。確かにそのような思考の流れはあるでしょう。詩人が体験したと思われる捕囚からの解放は、その創造の業に等しい大いなる神の御業で、そのように読むと、大いなる励ましのある詩です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
詩篇103篇では、神の性質を思い、神を讃えるよう勧められた。この104篇は、神の創造と摂理の業を思い巡らし、神を讃えるように勧められる。冒頭と結びが同じであることからも、両者は、対のものとして書かれたと思われる。内容は、神の創造の業を讃えるものであり、その構造は、創世記1章に準じたもの、と指摘する者もいる。つまり
第一日(光)(創世記1:3-5)⇒詩篇104:2a
第二日(大空が水を分ける)(創世記1:6-8)⇒詩篇104:2b-4
第三日(地と海の区別)(創世記1:9,10)⇒詩篇104:5-9(+10-13)
(植物と果樹)(創世記1:11-13)⇒詩篇104:14-17(+18)
第四日(時を計る者としての光るもの)(創世記1:14-19)⇒詩篇104:19-23(+24)
第五日(海と空の生物)(創世記1:20-23)⇒詩篇104:25,26
第六日(動物と人)(創世記1:24-28)⇒詩篇104:21-24
(全生物に指定された食物)(創世記1:29-31)⇒詩篇104:27,28(+29,30)
という対比を見て取ることができる。ただそのような枠を嵌めずに読むこともできる。というのは、創世記に親しんで育ったイスラエル人が、それを意図せずに思考の下敷きとすることはありうるからだ。なおこの詩篇は、BC4世紀、エジプトのアメンホテプ4世が描いた有名な太陽賛歌とよく似ていると言われるが、実際には、太陽を拝むよりも、太陽を創造された方を拝むことの大きな違いがある。
2.捕囚からの解放
さらにこの詩篇の七十人訳には、「ダビデによる」と表題づけされているが、実際には、第四巻の他の詩と同様、捕囚期後に書かれたとされている。つまりそれはエルサレムの再建を踏まえて書かれている、ということだ。捕囚の惨状は、エレミヤによって「茫漠として何もない」、「光はなかった」と創造の原初の状態にたとえている(エレミヤ4:23-28)。そこから立ち直って町は再建された。つまり詩人は、神の創造の業に重ね、神がイスラエルにしてくださった大いなる御業を思い巡らし讃えているのである。
だから10-13節、谷や山々への水の供給は、創造の素晴らしさではなく、回復された町の麗しさを思っているのであり、14-18節、地に満ち足りる植物も、主が再び、地を祝し、生産性のある毎日を取り戻してくださったことへの感謝である。19-23節は、捕囚から解放された者に、日常の生活リズムが戻って来たことへの感謝、24-26節の海の創造は、商業活動の回復への感謝というわけだ。26節、「レビヤタン」はよくわかっていない。ヨブ記41章では「わに」を、あるいは大魚のことであるが、そうした存在も神を喜んでいるとされる。
ともあれ詩篇104篇は、ただ、創造の業を讃えているのではなく、自分たちの歴史に起こった捕囚帰還という奇跡的な神の介入の業を、無からの「創造」の御業になぞらえて、感謝し、賛美していると読むことができる。だからこそ、「主の栄光が、とこしえにありますように」(31節)。そして神などどうでもよい、と思っている「悪者どもが、もはやいなくなりますように」(35節)と、付加的な賛歌(31-35節)が続くのである。
この背景を踏まえて読むと、私たちもまた、自分たちの茫漠と思える現実に、光をもたらす神を期待することができる。どれほど混沌としていようと、あるいは望みなき状況であろうと、「光よあれ」と語り物事を動かしてくださる神がいる。