詩篇107篇

第5巻 107篇 主に感謝せよ

おはようございます。詩篇107篇は、これまでの105、106篇と共通する部分がありながら、それは歴史的な一大イベントである出エジプトを振り返らず、ただ日常性の中での神の救いと助けを教訓とするものです。日常性に働かれる神を恐れて歩みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

第5巻、いよいよ詩篇最後の巻となる。1巻、2巻はどちらかというと、ダビデの個人的な苦悩を歌うものが多かった。3,4巻は礼拝詩、5巻も同様に考えてよい。ただ、この巻分けがどのようにして生じたのかはよくわかっていない。ギリシャ語の七十人訳聖書がこの巻分けを採用していることから、少なくともBC2世紀以前には出来ていたと思われる。

だがこの107篇は、その巻分けとはまるで無関係な始まりのように見える。つまり、4巻の最後106篇と107篇は、その冒頭の書き出しが同じである。そして、それらの終わりは、106:47では、「国々から私たちを集めてください」とあるが、107:3で「国々から彼らを集められた。」とあり、まさに前篇の祈願が成就された連続性があるようだ。実際105-107篇は、「主に感謝せよ」で始まる感謝詩篇として括られ、詩篇105篇は、神の契約への「誠実さ」を、106篇は反逆の民に対する神の「豊かな恵み」を、そして107篇は苦悩にあって主に叫ぶ者への神の「救い」を語る三部作とする学者もある。

ただ構造的に見ると、感謝の勧告(1-3節)から始まり、それに基づくまとめ的教訓(33-43節)、知恵ある選択への勧告(43節)で締めくくられる大枠の間に挿入されるエピソードの違いがある。つまりそれは、出エジプトという歴史的なものではなく、旅人の無事(4-9節)、囚人の釈放(10-16節)、病人の回復(17-22節)、船乗りの守り(23-32節)という日常的なもので、それぞれに、6節と8節、13節と15節、19節と21節、28節と31節と4回にわたって「苦悩から救いだされる神」を宣言するリフレーン(反復句)が挿入され、日常性の中での神の救いと恵みを宣言するものとなっている。107篇は第五巻として別物と考えてもよいのだろう。

2.日常性の中での神の救いと恵み

当時、荒野で道に迷うことは、よく起こりうる生活経験の一つであった。そこで、途方に暮れて神の助けを叫び求めた時に、神は助けられたと言う(4-9節)。また神のことばに逆らい、知恵ある諭しを退けた結果、神の裁きを受けた囚人。神に見捨てられ、人にも同様に扱われても致し方のない者たちが、神に助けを叫び求めると、神は助けられたと言う(10-16節)。続く病人は、愚かしい生活習慣の故に病んだ人たちである。けれども、自業自得と思われる病人が、神に助けを叫び求めると神は癒されたと言う(17-22節)。神が恵み深いというのはこういうことなのだろう。そして悪天候の暴風と高波に弄ばれる船乗り、彼にどんな望みがあろうか。パウロも(使徒27章)、イエスの弟子たちも(ヨハネ6:15-21)同じ経験をしているが、人間の制御を超えた脅威に襲われた時に、彼らが神に向かって叫ぶと、神は助けてくださった、と言う(33-38節)。105,106篇は、歴史的な一大イベントを振り返っていたが、この詩篇は、日常性の中で神の実在と恵みを覚えようとする。

だから最後に、総括的に感謝すべき主の恵みを語る、詩人の確信は深い。「主は豊かな川を荒野に、水の沸き上がる所を潤いのない地に」(33節)「主は、荒野を水のある沢に、砂漠の地を水の沸き上がる所に変える」(35節)、つまり、呪いも祝福も、神の思いのままである。そしてその呪いと祝福は、日常性の中でくだされることであるがゆえに、私たちは神を恐れなくてはならない。「主は君主たちを低くし」(40節)、「貧しい者を困窮から高く上げる」(41節)。だから「知恵ある者はだれか」(43節)と問いかけられる。神を恐れ、神の恵みを見極めて歩む者であろう。

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