109篇 呪いを詠う
おはようございます。呪いの詩篇と呼ばれるものです。この詩篇を読みながら、神の御前に正直になり、心取り扱われ、新しくされていくことが大切でしょう。裏表のない、歩みを可能とする、神が与えてくださった大事な手段と言わなくてはなりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
詩篇には「のろいの詩篇」というジャンルがある。つまり悪人を呪い、報復を祈る特徴を持つもので、他にも35篇、69篇などがある。既に述べたが、これらは、神の前に人を正直にさせ、その心を霊的に解放する目的を持つ。
「彼」または「彼ら」という人称代名詞に注目すると、1-5節、6-20節、21-31節と構造的に三つに区分されることがわかる。初めに三人称複数形の「彼ら」で語られる部分があり、続いて、三人称単数形の「彼」で語られる部分があり、最後に「彼ら」に戻っている。色々な考え方があるようだが、中ほどの6-20節で、「彼」と単数形になるのは、1-5節で語られた悪人たちの代表格を念頭に置いたためなのだろう。
これを逆に悪人のことばの例を引用した、とする解釈もある。しかし、その場合、ペテロが、ユダに代わる使徒を選出する際に、この詩篇を引用した意図が理解し難い(使徒1:20)。まるでペテロは、自分を悪人と同一視し、ユダを単純に呪ったことになる。しかし、この詩篇をメシヤ詩篇とし、これらのことばは十字架上の人間イエスがどんな苦しみを乗り越えたのかを考えさせるもの、と取るのがよいのだろう。となれば、ペテロは、この詩篇を思い起こしながら、イエスの深い痛みと、それをはるかに凌ぐ十字架愛を覚え、イエスの使徒たるにふさわしい者を選ぶ補欠選挙に臨んだことになる。
2.イエスも毒を吐いた?
私たちはイエスが、私たちの罪の赦しのために死んでくださった、それは神の恵みであった、とよく語るのであるが、あまりその深さをわかっていないものだ。イエスも、人間であれば、本来は、「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように」(8、9節)と毒づきたい弱さを通らされたのは間違いない(ヘブル4:15)。しかし、福音書に、イエスがそのような弱さに陥ったとも罪を犯したとも一切記録されてはいない。むしろ、イエスの十字架の愛は、そのような弱さを遥かに凌ぐものがあった、と言える。
3.神の御前に正直である
2節、「邪悪な口」「欺きの口」、詩人は嘘偽りで封じ込められている。「憎しみのことば」ということばの暴力にさらされている。4節「なじる」は、サーターン、悪魔を意味する。「私にサタンとなる」、つまり、法廷で悪魔的な告発者となっていることを意味する。しかもそれらは愛への報いである。つまり詩人は恩を仇で返されるような事態にある。こんな状況にあっては、ただひたすら神に祈るだけである。
ことばを封じることもできないし、巻き返しをはかることもできない、そのような時は、内側で傷ついた心を、素直に神に告白するとよい。それは、しばしば6-20節のような激しい毒のあることばになるかもしれない。しかし、自分の気持ちを誤魔化し続けても、解決はない。善人ぶって、その裏表のギャップの激しさに今度は苦悩するのみである。
神の御前で、自分の思いに正直になり、その悩みを差し出し、神のお取り扱いを受けるのでなければ、決して物事は良い方向には向かない。「あなたの恵みは、まことに深いのですから私を救い出してください」と、主に心を差し出し、心癒されていく必要があるのだ。それは、主が乗り越えられた十字架愛の深さに到達させられることでもある。主の救いの深さを二重に味わいたいところである。