11篇 主の御顔を仰ぎ見る
<要約>
おはようございます。絶体絶命と思われるような状況に置かれることは、人生にはいくらでもあることです。そのような中で泰然自若として静かに過ごしていくためには、主の誠実さを覚え、そこに信頼できる力を養うことです。それはまさに聖書通読道場でこそ養われるものでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.背景
ヨブ記、詩篇と読んできて、一つの信仰的な態度を考えさせられる。つまりどんなに危機的な状況にあろうと、泰然自若として静かに神により頼んでいく態度である。危機に直面しては、あたふたしやすいし、追い詰められた際には、神を疑い、神も仏もあったものか、と毒づいてしまうのが人間の性であろう。だが、静かに神により頼んでいく姿勢をしっかり養い育てていくのが、霊的な成熟というべきものなのだろう。
背景としては、ダビデがサウルに命を狙われていた時に読まれたものであるとされる。2節にあるように、実際にサウルは、ダビデを投げ槍で突き刺して殺そうとした(1サムエル18:11、19:10)。サウルの陰湿な嫉みにさらされ、ダビデは命の危険を感じたのであろう。「身の安全のために、鳥のように、山へ逃げろ」と自ら、心の内でつぶやいたのかもしれない。あるいは周囲にいる者たちが、そう忠告したのかもしれない。
2.拠り所が壊される
実に、絶体絶命という危機、望みがないという状況に人は追い込まれることがある。「拠り所が壊されたら、正しい者に何ができようか」拠り所は、自分の全存在がかかっている場である。実際、それが、失われたら、自分の小さな正義を振りかざしたところで、何になるだろうか、というわけだ。確かに、その通りだろう。ダビデは、サウルに命を狙われたが、サウルは、まさに国家の最高権力者であり、彼自身が法であり秩序として振舞っていたのだ。ダビデが正義を主張したところで、一笑に付されて終わりである。一体、そんな世界にあって、何ができるのか、というわけだ。善良で正しい者は、その正しさを心に秘めて、臍を噛みながら、破滅を逃れるために、逃げる他なし。これが現実である。
3.信仰を告白する
しかし、そのような状況に人は揺さぶられることがあっても、神はそうではない。神こそが最高権力者であり、万物の支配者である。その神が、全てを見通し、どうあるべきかを知っておられる。4節「まぶたは人の子らを調べる」は、目を細めて、詳細に調べるという擬人的な表現である。神はただ知っているのではなく、物事を見通し、よく理解されている、ということだ。ちょうど、主がソドムとゴモラを滅ぼそうとされた時に「わたしは下って行って、私に届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ」(創世記18:21)と語ったように、神は、私たちの生活の場に下りてきて、しっかり調査し、裏も取った上で、正しいことをなさるお方なのだ。
大切なのは、自分の揺さぶられた心に、弄ばれず、静かに動かぬ神により頼む心をしっかり持つことだろう。そしてダビデの祈りの言葉を自分のことばとして、告白することだ。「神は暴虐を好む者を憎む。主は悪者どもの上に網を下す。」「主は正しく、正義を愛される」、「直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る」という信仰を告白するのである。
信仰に生きるというのは、危機においてこそ、その真価が試されるものである。誰もが諦めてしまうところ、誰もが逃げてしまうところで、静かに神により頼んでいけるかどうか、そこが問われているし、その試練の受け止め方、対処の仕方に成長することが霊的成熟というものである。この詩篇は、最初に信じる者の安全がどこにあるかを示し、最後においてなぜそうなのかを語る。つまり、「主に私は身を避ける」(1節)そして「主は正しく、正義を愛される」(7節)ということだ。主の誠実さを静かに確信できる者となりたい。人は、主のまなざしを受けていることを知る必要がある。主が御顔を向けておられることに気づかねばならない。その主の御顔を仰ぎ、主に応答することが信仰であり、礼拝でもある。信仰に生きるなら、いかなる状況にあれども「まだまだ、諦めるのは早い」と心得ることとしよう。