詩篇110篇

110篇 王の託宣

おはようございます。この詩篇は、メシヤ詩篇として主イエスの魅力を語るものです。マタイは、この詩篇を引用し、イエスの神性を指摘しました。そして同様に、ペテロはイエスの復活と王権を、へブルの著者は祭司性、ヨハネは裁き主としてのご性質を語っています。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

この詩篇ほど新約に引用された詩編はなく、詩篇の中では極めて重要なメシヤ詩篇であり、メシヤの王権とその性質を端的に語るものでる。まず1節は、新約聖書に引用されている。イエス・キリストが、この言葉を用いて、ご自分の神性を主張するのに使われたのだ(マタイ22:41-46)。初めにイエスは、集まっているパリサイ人に「キリストはだれの子であるか」と尋ねた。彼らは、旧約聖書が語る通りに「ダビデの子」と答えるのであるが、イエスは、そこでさらにこの一節を用いて踏み込んで「ではどうしてダビデは、そのキリストを「私の主」と呼んだのか」と質問されたのである。パリサイ人たちは答えることできなかったが、質問の答えは明らかであった。メシヤは人間としてダビデの子孫として生まれたが、同時に神なのだから、ダビデの主でもあるのだ。キリストは人であると同時に神である。イエスは、「ダビデの子」という呼称を、拒まれなかったが、それは、ダビデの子孫として生まれながら、同時に神であることを自覚しておられたためである。詩人のダビデは、預言的に自らの子孫からメシヤである神が起こされる、と語った、というわけだ。

なお、イエスはこれをダビデの作としたが、研究者の間では必ずしもダビデの作とはみなされていない。しかし、「敵をあなたの足台」とするというのは、完全な征服を象徴することばであるから、イスラエル史の中ではダビデ時代が背景として相応しいだろう。

2.ペテロの引用(イエスの復活と王権)

次にペテロもまた、この節を引用している(使徒の働き2:34-36)。ペテロは、詩篇16:8-11、89:3、4のメシヤ詩篇とセットにこの節を用いて、詩人が遠い将来に起こるイエスの復活を預言している、と指摘した。自分たちはまさにその証人であると言う(32節)。初代教会の使徒たちからすれば、この詩篇は、まさに復活を通して、イエスの王権が確立されたことを象徴的に語るわけだ。2節の「主は、あなたの力の杖を、シオンから伸ばされる。」は、確立されたメシヤの王権について語る。ただ、3節は、民が主の王権を認め、イキイキと力強く仕える様を語っている。まさに初代教会の使徒たちの働きは、朝明けの露のごとし、麗しく、力強いものであった。

3.ヘブル人への手紙のの引用(祭司性)

さて、ヘブル人への手紙の著者は、4節を引用して、メシヤのもう一つの側面を指摘する(7:21)。つまり、イエスは、人間としてはダビデの子孫として生まれ、同時に神であり王であるのだが、さらに祭司でもある。つまり、著者がこの詩篇を引用するのは、キリストが永遠の祭司であることを示すためである。イエスは、祭司として、私たちを神の御前に導くお方である。私たちの罪のためにとりなし、私たちを神の前に立たせてくださるお方である。

4.ヨハネの引用(裁き主)

最後に、ヨハネが黙示録で、5節「御怒りの日」(黙示録6:17)という用語を用いていることに注目しよう。イエスは、神、王、祭司である。そしてさらに裁き主として、世の終わりに再臨する。「主は国々の間をさば」(6節)くお方として現れる。イエスもペテロも、ヘブルの著者も、すでに公に証されたイエスの性質を語っている。しかし、裁き主としてのイエスは、これからのことである。110篇は、まだ閉じられてはおらず、これから起こることについて触れている。裁き主としてやがて来られるイエスを覚えて、慎みとまことをもった信仰の歩みをさせていただこう。

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