113篇 神の偉大さの前に遜る
おはようございます。キリストが、十字架前に、最後に読んだと思われる詩篇です。確かに、それにふさわしい、心躍らされる、神の前に深くひれ伏す思いにさせられる詩篇です。至高なる主、その権力を、弱き者のために用いられる主を覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
詩篇113~118は、ユダヤ教では、「ハレルヤ詩篇」と呼ばれる。114篇の主題が示しているように、これらは出エジプトの恵みを想起する目的で、過ぎ越しの祭りの食前・食後に歌われた。まず食前に第二の盃をあけるまでに113~114篇が、食後、第四の盃に注いでから115~118篇が歌われた。キリストは、盃を二回交わしているので、受難前に歌った最後の詩篇だった、と考えることができるだろう。実際、キリスト教会では、この詩篇を含め114、118のハレルヤ詩篇を復活節夕礼拝に用いてきている。7~9節の記述から、捕囚帰還後に書かれ、礼拝用の詩篇とされるようになったのではないか、と考える者もいる。
2.礼拝の広がり
さて、全体的に、礼拝を促す賛美であり、その礼拝の広がりをイメージさせる。まず、「今よりとこしえまで」とあるように、礼拝の広がりは一定の時間、一つの時代を越えている。キリスト者の礼拝は、今、この場に縛られるものではない。それは、信仰の創始者や偉人たちに連なり、そして、今ここにある者たちと共に心を併せて行う行為である。また、「日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように」とあるように、それは、一つの場所、一つの国を越えている。ある特定の地域で行われている礼拝は、他の地域の兄弟姉妹ともつながりながら営まれている。神の目は、全ての教会に注がれており、一つの教会だけではない。今この時も一緒に神を仰いでいる主にある兄弟姉妹と共に、神の家族として大きな連帯感の中で礼拝を献げるのだ。
3.主の卓越性
続いて著者は、4節、主のその卓越性を讃えている。私たちの主は「国々の上に高くいま」す、世界を支配する絶対主権者である。次行の「その栄光は天の上にある」は、直訳である。詩篇8:1には「あなたのご威光は天でたたえられています」とあるが、ここは、4節の前半との対比で、私たちの主は、国々の上、つまり地においても、そして天においても崇められるべき至高なるお方だ、というのが趣旨で、「だれがわれらの神、主のようであろうか」(5節)、主は最高である!という告白につながっていく。
ところがその主は、同時に、身を低くして天と地をご覧になるお方である。高い御位に坐し、威張っておられるお方ではない。神は、「弱い者や、飢えた者を拾い上げ、人々の指導者とされるのです。不妊の女は子宝に恵まれ、幸せな母親となるのです。(リビングバイブル訳」という(8-9節)。人間的に言えば、弱い者も飢えた者も、最低限の世話をすべきものであり、人の上に立たせるような存在ではない。古代オリエントでは、不妊の妻は離縁されるのが普通であった。だから子を産まない女に望みはなかった。しかし神は、何も望みを持てない状況にある者に、望み以上の介入をされるお方である。至高なる主は、その権力を、貧しい者、見捨てられた者を引き上げるために用いられる。だからこそ、最高だ!ハレルヤ、となるのだ。そうであればこそ、この神の前にひれ伏す、つまり礼拝せずにはいられないのである。サラ、ハンナ、そしてマリヤの賛歌が重ねられて思い起こされるところである。
神を知れば知るほどに、私たちはその偉大さの前に、頭を低くされ、神の前に静まり拝することを教えられる。神は神であり、人は人である。神を体験的に知る、これがその人の礼拝生活を豊かにする源となる。