114篇 主権に応答する
おはようございます。三部構成の簡単な詩篇です。そして非常に神の主権とその卓越性が、絵画的によく理解できる内容となっています。主権を持った主であればこそ、私たちはこの主をまことに恐れなくてはなりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
113篇の解説にて既に述べたように、この詩は、出エジプトの民が、紅海を渡り、荒野を通り抜け、ヨルダン川を渡り、カナンの地に入った、その旅を想起するものである。イスラエルがエジプトより引き出されて、神の民とされ、神の力強い御手によって、荒野の旅路を守られたことを振り返り、その神を覚えるように、呼びかけている。
そこでこの詩篇は、ユダヤ教では過越しと種入れぬパンの祭りの第八日に用いられてきたが、出エジプトの象徴的な意味(解放)をとって、カトリック教会では、臨終と埋葬の儀式に、英国国教会では復活節に用いられてきた。
さてこの詩篇は大きく3つに構成される。まず出エジプトの歴史的な出来事が回想される(1、2節)。「イスラエル」「ヤコブの家」「ユダ」と色々な呼び名が出てくるが、それらは言いかえであり、皆同じことを指している。大切なのは、エジプトからイスラエルの家は引き出され、神の住まうところ、神が支配するものとなった、という点だろう。十戒の前文が思い出したいところである。つまり、神がイスラエルをエジプトの国から連れ出したのだから、イスラエルは神に従う者とされるというわけだ(出エジプト20:1)。キリスト者が神に従うのは、十字架の救いのためである。
2.被造物の主
3-6節は、この出エジプトで起こった、海、山、丘の異常な動きを思い起こし、イスラエルを引き連れる主の主権に注目させる。3節「海は見て逃げ去り」は、紅海徒渉において、潮が急激に引いた様子を語っている。海は主に道を譲った。「ヨルダン川は引き返した」(3節)ヨルダン川も逆流し、主に引き連れられたイスラエルに道を譲った。そして4節「山々は雄羊のように、丘は子羊のように、跳ね回った」。つまり、雄羊や子羊が、何者かに道を開けるかのように、脇に退いていく、あるものはスキップし、あるものは小走りに去っていくかのように。主に連れられたイスラエルに、荒野が道を譲っていくことを語っている。
イスラエルの民は40年荒野に閉じ込められた時を過ごした。それは立ちはだかる紅海の前にたたずみ、この先どうしたら、と途方に暮れる、気の遠くなる時を過ごすのと同じことであった。しかしその荒野が、イスラエルを引き連れた主に道を開いていく。山々が、丘が、分かれていく。絵画的なイメージをもって、40年の荒野から解放されていく希望が、万物の支配者である主にあることを思わせるのである。
3.主の御前におののく
だから7-8節は、その偉大なる神の主権を認めひれ伏すべきことが教えられる。7節「おののけ」は、新共同訳では「身もだえせよ」である。しかし原語の「フウル」には、喜びの意味とリズム的な感覚がある。だから英訳(NEB)では、「地よ、踊れ」とも訳している。古代イスラエルでは、音楽に合わせたダンスで主に向かって感情を表現することは日常的になされ、ダビデも主の前で踊った。だからその意味でも間違ってはいないのだろう。けれども、被造物がただ主に従わせられる文脈からすれば、人間には恐れが期待されるところだろう。そして、いついかなる状況にあっても「岩を水の潤う沢に変えられ、堅い岩を水のあふれる泉に」変えられるお方へ信頼すべきことが促される。短く単純な詩篇であるが、神の主権をはっきりと認め、その主権のなせる業に期待すべきこと、そして、神を恐れ、神に従うべきことを教えられる。