116篇 主を愛することに基づく証
おはようございます。今日の詩篇は、二分割されたテキストもあるように、前半と後半の主題が明らかに異なっています。しかしそこに連続性のあることにまた注目すべきでしょう。ハガペーサ(主を愛する)ことに基づいてエピステーサ(私は信じる)の宣教もあるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
ギリシャ語の七十人訳聖書では、先の114篇と115篇が一つになり、本篇の116篇が二分され、それぞれ115篇(1-9節)、116篇(10-19節)に相当する(実際には、詩篇9篇と10篇が一つにされた以降のずれがあるので、114篇、115篇である)。新共同訳は、その区分を踏まえて(ヘブル語聖書でもそのように分割している写本もある)、1節「私は主を愛する(ハガペーサ)」10節「私は信じる(エピステーサ)」と冒頭の一節の書き出しが七十人訳に沿って明瞭である。音の語呂もよく、主を愛する詩篇と主を信じる詩篇となる。
確かに、一読してみれば、前半と後半では、明らかに主題が異なっている。前半で、詩人は死に直面する病と苦しみに置かれ、そこから神に救われたことへの感謝を詠っている。後半では、救い主である神を覚え、その神にいよいよ忠誠を果たす覚悟を詠っている。このような違いはあるが、ヘブル語聖書どおりに、一続きの詩と扱っても違和感はない。むしろ、前半の経験を踏まえて、後半の神に対する忠誠を詠う流れからすれば、一緒であってもよい。
2.ハガペーサ(主を愛する)
さて著者は、「主は、わたしに耳を傾けられるので、わたしは生きるかぎり主を呼び求めよう」と語る。耳を「傾けてくださる」と訳されたヘブル語は、ナター。リビングバイブル訳では、「身を乗り出して聞いてくださる」である。身を乗り出すは、さらに積極的であり、語っていることに注意を向ける、意識をしっかり向けるニュアンスが伝わってくる。箴言では、わが子よ。注意して私のことばを聞け、私の言うことに耳を傾けよ」(4:20)にナターが使われている。大切なことは、神は私たちのことばにしっかり心を向けられる、しっかり関わって聞いてくださる、だから主を呼び求めよう、となることだ。
詩人は、死の恐怖の中で、悲しみのどん底に突き落とされた時に、神を呼び求めた。「主よ、どうか私のいのちを助け出してください」(4節)と。そして、神は、その信仰による祈りに耳を傾けられ、死の一歩手前で、詩人を救われている。詩人は、人生を諦めかけていたのだが(10,11節)、神は救い出してくださった。確かに助けてくださった神に、なんとお礼したらよいものか、と前半と後半は絶妙に繋がっていくのである。
3.エピステーサ(私は信じる)
パウロは第二コリント人への手紙4:13にこの10節を引用している。その意図は何か?そもそもこの詩篇は、死から救い出してくださった神に、どう応えたらよいのか(12節)、その恩義を返すべく、自分の誓いを果たそう、ということを詠っている(14、18節)。
パウロは、その詩人の思いを自分の宣教の思いに重ねて語っている。パウロは、コリント人への手紙の中で「私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています(5節)」と語った。つまり、彼は自分の考えや、自分の理論を語ろうとしているのではなく、自分の経験、死から命に移された神に与えられた経験について語っている。ちょうどこの詩人と同じ経験があったことを思い起こしている。だから彼は自分がイエスの死を身に帯びた、と語り、それはイエスの命が自分の身に現れるためであった、と語る(10節)。そして、「信じるゆえに語る」と引用する。つまり、この素晴らしい信仰の経験を証しすることを言わんとしている。彼にとって誓いを果たすとは、神の栄光を証しする宣教による恩返しをする、ということである(15節)。ハガペーサ(主を愛する)に基づいてエピステーサ(私は信じる)ことの宣教が引き出されるのである。