詩篇12篇

12篇 真実な主のことば

<要約>

おはようございます。人間の社会は実に不条理に思われることがあるものです。右を見ても左を見ても不真実な人々ばかり、誠実さの一欠けらもないと思わされることがあるものでしょう。しかし、たとえそうであっても、神は真実であると信頼し、前に進むのがキリスト者なのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.背景

背景として考えられるのは、Ⅰサム22:9、23:12、19であるという。つまりダビデがサウルの手から逃れようとしていた時に、ダビデの消息を告げ口する者たちがいた、その状況である。「主よ。お救いください。敬虔な人は後を絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。」(1節)。神を恐れ、神を敬う人がどんどん少なくなっていく、そして、信頼できるような人を探してもいない。右を見ても左を見ても、平気で嘘偽りを並べ立てる者たちばかりである、という。「へつらい」は、調子の良いことを言うことであり、「二心」は、心にないことを言うことに他ならない。問題は、そのような品性の卑しい者が、状況を左右する力を持ってしまう事態であろう。

そのような状況下にあるというのは、実にストレスフルなことである。自分の知らないことが陰で動いていき、物事が動く原理原則としての正義が通用しない、悪しき者がほしいままにふるまい、それに歯止めをかける者もいない、神すら沈黙し、その状況を許されるという事態、それは実にごめんこうむりたい状況であるが、それが現実となることもあるだろう。「主が、へつらいの唇と傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように」(3節)と心から叫び祈らざるを得ない状況がるものなのだ。

また、人間は弱く、そのような偽りの舌の間で、自らも影響されてしまうことがある。人の偽りを憎みながら、自らも偽っていることに気付かされることがある。だが、神を真に信じる誠実な心を持つ者にとって、偽り続けることは難しい。自分から誠実さが失われるのは耐えがたいことであるからだ。「この唇はわれらものもだ」(4節)、何を言ったっていいじゃないか、と考えている「彼ら」とは違うのである。

2.主は言われる。

祈る詩人に主が約束される。「わたしは彼を、その求める救いに入れよう」(5節)。悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆く、そのような状況を神は決して放置されない。神は、エジプトで奴隷状態であったイスラエルを救い出されたお方である。また、祭司長や律法学者など、当時の指導者層に憎まれ、十字架に追い詰められ、死に葬られたイエスを、三日目に復活させたお方である。主の救いは、真実な約束である。この世の偽りと欺きの現実がいかに色濃くあろうとも、主の真実は明らかにそれらに勝っている。

確かに、主の言葉は、るつぼで精錬された銀のように、試されたことば、練られたことばであって、それはへつらいの唇でも、口先でも、気休めのことばでもない。それは、人間のことばとは全く違うことばである。歴史的に試されて、繰り返し確かであると証明されたことばである。その真実な言葉を語られる主が言われる。「今、わたしは立ち上がる」(5節)そして、踏みにじられた者、貧しい者、嘆く者を助け出そう!と。私は嘘を言わない!である。

希望がないと思う時にこそ、この主の言葉に力づけられよう。8節、「人の子の間で」は、「この世の人間社会で」の意味に理解してよい。「卑しいことがあがめられる」、つまり嘘偽りによって国中に不道徳と不条理が蔓延っている状況である。正義が全く踏みにじられ、神も死んだと言われる状況である。確かに、この世の社会では、偽り者が幅を利かせ、悪者がのさばっている、そんな状況が顕著になることがあるかもしれにあ。しかしたとえそうであっても、神のことばは真実である、神は約束に誠実なお方である、と信頼し、なすべきことを淡々と進める歩みをさせていただこう。夜は必ず明けるのだから。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください