128篇 主の民の上に平和があるように
おはようございます。主を恐れる縦の関係がしっかりしていく時に、私たちの横の関係も豊かなものとなっていきます。それは、私たちの祝福を超えて、私たちの近隣の祝福となっていくものだからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈
この都上りの歌は、イスラエルの民の日常性を扱っている。捕囚の民として、帰還が許され、彼らが直面した苦難について、それを乗り越えた思いを歌ったのが、126篇であるとしたら、128篇は、その安住の喜びを歌ったものだ。町の再建が終わり、日常生活が落ち着き、主の祝福を感じながら歩む日々に、進んでいる、というわけだ。
2節、「あなたがその手で労した実りを食べること、それはあなたの幸いあなたへの恵み」帰還した捕囚の民は、凶作(ハガイ1:9-11)や搾取そして異邦の民による妨害(ネヘミヤ5章)のために、なかなかまともな労働の実を得ることのできない状態にあった。しかし、神のめぐみと守りによって、再建は達成され、労働の実を楽しみ味わう安住を得たのである。それはまさに幸いであり、恵みであった。
3節、「あなたの妻は家の奥でたわわに実るぶどうの木のようだ。あなたの子どもたちは、食卓を囲むときまるでオリーブの若木のようだ。」妻が家の奥にいるというのは、家事にいそしんでいる状態を言う。当時のユダヤでは、不妊は妻の恥であった(1サムエル1:6)。だから、豊かに実を結び、子に恵まれることは、神の祝福があることを端的に伝えている。確かに、家族が、食卓を囲んで潤った時を過ごすことほど幸せなことはない。
4節はまとめになる。このように、主を恐れて歩む人は、祝福を受ける、と。1節の「幸い」と4節の「祝福」と訳された言葉は、それぞれ異なっている。1節はアシュレー、4節はバラフである。アシュレーは、新約では山上の説教に出てくる「幸いなるかな」に相当し、単に祝福の状態にあることを言う。バラフは、主からの祝福の受け手として恵みを受け、その結果祝福の状態にあることを言う。「幸いなるかな、主を恐れる人は」という宣言に対して「主を恐れるなら、このように祝福される」と結ばれている。
2.主を恐れる幸い
しかしなぜ主を恐れることがこのような幸せになるのだろうか。詩人が語っているわけではないが、それは、やはり目に見えない主を恐れること自体に、俗に言う風通しのよさがあるからではないか。そこにはごまかしもないし、偽りもない。ただお互いを尊敬し合い、愛し合い、支え合う関係がある。神との縦の関係がしっかりしている時に、横の関係もすっきりしている。5節「主がシオンからあなたを祝福されるように。」ヘブル語ではバラフであるが、文法的に言えば受動態ではない。能動的な強調であり「あなたを大いに祝福する」である。しかも、継続・反復の意味がある。だから「主はシオンからあなたを繰り返し、力強く祝福する」の意味となる。「主は大いに祝福する。だから、見ていなさい。エルサレムの繁栄を、あなたの子らの子たちの繁栄を」となる。大切なのは、個人の繁栄が、エルサレムの繁栄につながっていくこと、つまり、キリスト者個人の繁栄は、教会全体の繁栄でもある。あなた、家族、そして教会という広がりを持ちたいものであろう。
「見よ」と訳された言葉はラアー、一般的には肉眼の目で見ることを意味するが、ここでは、あるべきものに注意を向けるように促している。クリスチャンの人生は、神のなさることに目を向けていくことに特徴がある。すべては天から、上から与えられるのであり、神がなさる業に与っていくことである。そういう意味ではこの詩篇は127篇の続きであり、神が備えてくださるものに注目し、素直に喜び受けて歩む大切さを語っている。