132篇 ダビデ契約を思い起こす
おはようございます。ダビデの誓いに対する神の誓い、いわゆるダビデ契約を思い起こす詩篇です。ダビデの契約に忠実であった神は、私たちにも同じようにしてくださることでしょう。神は罪人の神であり、まことに誠実な方です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.文脈と背景
3節、ダビデの誓いが語られる。契約の箱がまだ安住の場を得ていないことに心を痛めて、「私は決して私の家の天幕に入りません。私のために備えられた寝床にも上がりません。私の目に眠りを与えません」と誓いを立てている。これは神の箱がエルサレムに搬入される前、まだユダのバアラにあった時のことを言っている。ダビデは、自分が立派な住まいに住んでいて、神の箱が仮住まいであることに申し訳ないと考えていたのである。しかし、それは文字通りの意味ではない。ダビデにとって神がいかに大事な存在であるか、という気持ちを表現したものだろう。実際、ダビデは神のあわれみによって、サウルの追跡から命を守られ、王に引き上げられ、今ある幸せを得ているわけだから、大事な神が、大事にされる、そのような状況になるまでには自分は、眠りにつかない、というわけだ。6節エフラテはベツレヘムのこと、ヤアルの野はその近くの地方で、そこで主の契約の箱が見つかったことを言っている。ダビデは、主の臨在の象徴である契約の箱の発見に心からの喜びを表し、神の前にひれ伏し、大事にすべきものを大事にしたい、と語っているわけである。
2.ダビデの誓いに対する神の誓い
さて11節「主はダビデに誓われた」とある。大ざっぱなまとめ方であるが、後半はダビデの家系が豊かに守られ、祝されることを神が約束するものだ。つまり、前半を受けて、神を大事にしたダビデが、逆に神に大事にされる、祝福されることを語っている。これはダビデ契約の確認と見るべきである。
ところで、実際にはこの詩は、捕囚の民がバビロンから帰還した際に詠まれたものである。いったいなぜ捕囚の民は、このダビデの言葉を引用したのか。なぜ彼らに、ダビデ契約は重要であったのか。旧約聖書を読む時、そこには歴代誌的歴史という考え方が読み取れる。つまり歴代誌は、ある主の原理原則を教え、その原理原則の具体例がエズラ、エステル、ネヘミヤ記であるという考え方である。歴代誌は捕囚期以降に書かれたと考えられており、それはサムエル記、列王記の内容とよく似ているようでありながら、その単なる焼き直しではないというわけだ。そしてその原理原則として重要なのが、ダビデ契約である。エズラ、エステル、ネヘミヤ記を読むならば、神がいかにダビデ契約に忠実であったかがわかるのである。
3.神の誓いへの応答
そこで捕囚の民は、エルサレム巡礼の旅をしながら、神の忠実さを思い起こし、エルサレムでの礼拝に向けて霊的に高められていったのである。ダビデ契約に忠実となり、その生涯を支えられた神は、その子孫にも約束通りにされるだろう、と希望に満たされたと言える。
困難への取り組みは人様々である。しかしいかに不安と恐怖に翻弄されようと、苦難に飲み込まれて品位も節操も失ってはならない。むしろ主の最善を信じる神の民は、信仰の歴史的遺産を振り返える。神を大事にしたダビデに、神がどうしてくださったかを思い起こす。
苦しさや困難に負けてしまってはいけない。負けてしまってただ嫌な自分に浸りきってもいけない。むしろ、そういう時にこそ、神を大事にするダビデに、神が何をしてくださったかを覚えたいものだ。ダビデの誓いを覚え、ダビデに対する神の契約を覚えるのである。そして、信仰を働かせ、気を緩めず、すべきことをしていく。当時の人々が、瓦礫の山、多くの反対に再建の気力を失いかけ、手を止めてしまう誘惑に駆られていたにもかかわらず先へ進むことができたのは、一重にこの神の誓いを覚えたればこそであった。