詩篇134篇

134篇 礼拝の文化を形作る

おはようございます。都のぼり最後の歌です。そこで注目されるのは、巡礼者が祭司たちのために祈るところです。牧師が信徒のために祈ることは当たり前のようですが、信徒が牧師のために祈ることもやはり重要です。そんな聖書の文化をしっかり身に着けたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

都上りの歌、最後の詩篇は短い。1節「主のすべてのしもべたち」は、巡礼者ではなく祭司たちのことである。つまり、この詩篇は、巡礼を終えた礼拝者たちが祭司たちに向けて祝福を祈る歌とされている。ことに、2節「夜ごとに主の家で仕える者たちよ」とあるように、それは、ことに神殿業務の夜間シフトの働きを担う者たちに対する、励ましと祝福を祈っている。考えるべきことは、夜通し主の宮を守るために、立てられている者に、巡礼者がこのように祝祷を述べて、宮を後にしていく習慣があったことだ。ある意味で陰ながら神殿業務を支えている働き人、に対する心遣いがあった、ということだ。

3節は、祭司たちからの応答の祈りであるとされる。「あなたを祝福されるように」という「あなた」は、巡礼者のことである。巡礼者の祝福に、祭司の祝福が返されて送り出されるのである。

2.祭司への祈り

この詩篇で注目されるのは、やはり、巡礼者たちが主の宮の働き人のために祈った点だろう。現代の礼拝では、牧師に祝福を祈られて、信徒は世に送り返されていく、それが礼拝の締めくくりとなっている。しかし、この詩篇が描く礼拝のしめくくりは、神殿業務を司る者たちの働きを認め、その働きを支援する祈りが加えられていることである。しかも、表立った人々のみならず、夜のシフトをこなす、陰なる働き人の労を祈っている。

牧師や礼拝奉仕者が礼拝に集う会衆の祝福のために祈るのはよいとして、その逆は何のためなのだろうか。それは、再び帰ってくる時まで、神の民に対する祈り、とりなしの祈りが絶やされないように、と願うことを置いて他にない。一年に一度の過ぎ越しの祭りの素晴らしさを味わった後、彼らはそれぞれの土地に帰っていく。それぞれが信仰の歩みを志していく。しかし、それは、祭司たちも同じである。祭りが終わったやれやれではない、次の祭りに向かっていく陰なる準備があり、生活がある。それは、一週に一度の礼拝を終えて信徒が帰っていく時に、牧師の側では、次の礼拝に向けた準備が始まるのと同じだ。信徒が教会から出て行った後、牧師は、教会においてなお、朝毎に祈りの炎をともし続け、次の日曜日に帰ってくる一人一人の顔を思い浮かべつつ神に向けていく祈りの奉仕を始めていく。そのような陰なる働きを覚え、教会が祝福を祈りはじめるなら、その教会はどれほど祝福されることであろう。詩篇が語るこのよき習慣が、教会にしっかりと根ざすことが期待される。

3.礼拝の文化を形作る

そもそも礼拝は、よく理解されていない習慣である。礼拝がどのようなものなのか、聖書にゼロから教えられていく必要がある。教会に来て毎週何をしているのか。たいくつな儀式に参加しているのか。あるいは、同好会へのお付き合いをしているのか。いずれも違う。礼拝は神の召しに応えて、神を認め、神の御声に耳を傾け、その御業を想起し、神に栄光を帰し、神に自分自身を献げていく行為である。牧師は、会衆がそうできるように、礼拝を準備し、与らせていく。となれば、参加する者が、牧師の働きに感謝し、祝福しつつ家路に着くことも自然な流れとなる。そのような文化が私たちのうちにしっかり形作られなくてはならない。キリスト者になることは、聖書の文化を学ぶことであり、聖書の文化に生きることである。その中心は礼拝である。神を礼拝する民となることである。今日も、礼拝を学ぶ者として、整えられて出席することとしよう。

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